第1738回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語 】

第1737話 仏清戦争の事  2017年2月22日水曜日の投稿です。



  
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 ところで、1894年の9月から、日本と清国は戦争を行い、多くの人が亡くなり、

明治27年から28年にかけて、いろんな事が起きていった事を少しずつ紹介

してきたのですが、戦後の日本人が知らない戦争、 仏清戦争【ふつしんせんそう】

と呼ばれる戦争があって、この戦争は、前回お話しした 台湾の乙未戦争【いつみ

せんそう】とは非常に深い関連があるので、簡単にお話しします。

 樺山台湾総督と、清国全権大使、 李 経方さんとの話で、領土と属国という

お話しをしたのですが、 当時ベトナムには王朝があって、 清国に毎年貢ぎ物を

献上する属国であったのです。

清国の領土ではないのですが、 属国であったのです。

ここに、フランスが植民地にしようと、フランス海軍が1883年8月23日にベトナム

に上陸してきたのです。

 そこで軍事力が劣るベトナムの王朝は、清国に援軍を頼んだのです。

 これが、日清戦争の始まる2年前のお話しです。

 清国が援軍に派遣したのが、雲南省や、広東省の西の軍閥黒旗軍の指導者

 劉 永福 大将軍であったのです。



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                  【 黒旗軍 劉 永福 大将軍 】


   黒旗軍は、フランス軍と戦い、何度も撃退するなど活躍をしたのですが

  フランスは、陸上で進むのが困難と判断すると、フランスは、強力な海軍力で、

  ベトナムから海路、広東に艦隊を進め、黒旗軍の後側の清国に兵を進めたの

  です。


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   日清戦争から1年前の 1893年 8月23日 フランス海軍の13隻の軍艦と

清国の 西洋式の装備の軍艦で揃えた、福建艦隊22隻が馬江と言うところで

激突し、 どういうわけか、ほとんどフランス海軍は無傷で、 清国の福建艦隊

22隻は、約倍の戦力を有しながら、約1時間で壊滅してしまったのです。


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     【 馬江海戦を指揮した アメデ クールペ フランス海軍提督 】


  清国は西洋式の軍艦で倍の22隻という戦力で攻撃し、わずか13隻のフランス

  艦隊に1時間で全滅させられたというニュースは、当時大きな驚きとして日本

  海軍に伝わったのです。

  その後、清国はフランスと講和条約を結んで、ベトナムの王朝を見捨てて、

  黒旗軍を引き揚げ、 ベトナムの王朝はフランスに無条件降伏し、ベトナム

  フランスに占領され、 植民地にされていったのです。



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  整理すると、 清国海軍は、日清戦争の前の年の1893年に馬江海戦で

  福建艦隊 22隻が全滅し、 次の年の1894年には、日清戦争黄海海戦

  北洋艦隊13隻が、日本側に撃破されて全滅し、35隻の西洋式の海軍が全滅

  に近い状態になっていったのです。 

  清国は領土が広い大きな国ですが、 そのため国境線が長く、いろんな場所で

  戦争となり、 どんどんどんどん、負けが続き、 軍事費が枯渇し、兵力が

  撃破されていき、 軍事力が落ちていったのです。
  
  ところでその後、ベトナムから清国こと、中国に引きあげた黒旗軍はどうなって

  いったかと言うと、そのまま、劉 永福 大将軍に率いられ、台湾防衛の為に、

  台湾の内陸地に転進し、陣を張ったのです。



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   黒旗軍というのは、清国の正規の軍隊ではなく、 軍閥という扱いの軍勢で

  少しわかりにくい表現ですが、 雲南省広東省の周辺でお金で雇われた

  傭兵集団、 言い方を変えると、義勇軍のような存在であったのです。

  つまり、北京で話す支那語は話せず、 台湾の現地の言葉は話せず、雲南

   広東の言葉で会話する、 台湾の人から見ると、外国人の傭兵集団であった

  のです。


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     台湾の北部 基隆【キールン】に上陸して布陣した 近衛第1連隊と

    近衛第2連隊は、 この黒旗軍と台湾内陸部で戦火を交えることになって

    いったのです。

     ベトナムのジャングルで、何度もフランス軍を撃退した 精鋭 黒旗軍

    との戦闘は どのような戦術をとっていったのか、 少しずつ紹介して行き

    たいと思います。


     【 明日に続く。】