第1739回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1738話 近衛第2旅団の事。 2017年2月23日木曜日の投稿です。
【 初代 台湾総督 樺山 資紀 海軍大将 】
1895年 明治28年6月3日に、形だけの台湾授受式なる催しを、西京丸と
いう 客船の船上で行った、樺山台湾総督の司令部は、南部侵攻の第一歩
として、 台北 【たいぺい】の平定作戦を立案することになっていったのです。
台北は、台湾の東部の 白い矢印の場所に位置する町で当時
多くの台湾の人や、 一部、基隆から逃走した清国人が、現地人に
変装して隠れていたようです。
その中に、 唐 景松 台湾総統も紛れ込んでいたという言い伝え
です。
当時の戦術として、基隆から 川沿いを西に進む部隊と、北に移動して
入り江沿いに、海軍の艦艇で、川下を封鎖して、海岸から南に進撃する
部隊とに分かれたようです。
当時、近衛師団は 2個連隊の兵力しかおらず、 前に進むと、後の守備も
必要なわけで、 近衛第2旅団が急派されることになって行ったのです。
近衛第2旅団とは、どのような部隊かというと、旅団長は、山根 信成
陸軍少将で、その統帥下に、中岡 祐保 陸軍中佐の近衛第3連隊の2千名
の部隊、内藤 正明 陸軍中佐の 近衛第4連隊の2千名 合計4千名の
部隊であったのです。
近衛師団は、8千名の戦力となり、 毎日、毎日、おびただしい物資が
消費され、 田舎の港町であった 基隆には、どんどん物資が陸揚げされ
要領の良い台湾の人は、これらの物資の荷役や、運搬を請け負って
金儲けをしたり、日本人が台湾に来ることで、 清国人は消え失せ、貢ぎ物
をとられることはなくなったのですが、 いろんな迷惑を日本人は当時現地の
人にかけていったようです。
当時、比較的大きな町であった、台北では、日本人が攻め寄せて来ると言う噂で
大騒ぎとなり、 無抵抗で日本軍を招き入れ、無益な戦争を回避しようという人達と、
日本人から 台北を守り、一戦しようという、好戦派の人達と論争になっていった様
です。
樺山 台湾総督の司令部では、偵察員からこれらの情報を得ると、基隆から
現地の台湾人を雇って使者として 台北に送り、 現地人の保護、 清国人の
清国本国への帰還などの条件を伝えて、 町全体に伝えるような宣撫工作を
数日かけて行うと平行して、 艦隊を北側海岸に移動させ、 内陸からは、
陣容を整え、 台北に圧力をかけていったのです。
【 明日に続く。】