第1744回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1743話 台南のゼーランディア城の事。2017年2月28日火曜日の投稿です。





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             【 近衛師団 師団長 北白川宮 能久【よしひさ】王  】


   樺山 台湾総督が 1895年6月17日に 台北で 台湾施政宣言を行って

その5日後、 近衛第1連隊、 近衛第2連隊を主力とする近衛師団 4千人の

兵力が新竹をめざして 進撃を開始したのです。


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   淡水庁 新竹という町は、たいした抵抗もなく、 近衛師団によって占拠され、

  近衛師団は、 雨期の天候が悪い中、 この新竹に陣を敷いたのです。



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    一方、中国の雲南省広東省から台湾に駐留していた 清国の黒旗軍

  同じ月の6月27日 台南民主国 独立宣言を行い、総統に 劉 永福 が

  就任すると、その本拠を ゼーランディア城に本陣を置いたのです。


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                   【 台南民主国 総統 劉 永福 】


  みなさん、台南の人の目線で見ると、中国大陸から 言葉も通じない軍隊が

どかどかとやってきて、 台南で 勝手に独立宣言をして、総統を名乗り、日本軍

に徹底抗戦を叫んで、 自分達に無償で、食糧を出せ、 馬や、牛を出せ、と、

無理難題をふっかけて、 言う事を聞かないと、 殺されるわけで、大変な迷惑で

あったに違いありません。

どうして、こんな事が起きていったのか、 その原因は、自分達の民族で、外国

から侵入してくる軍隊を、追い払う事が出来る軍事力を台湾の人が持っていな

かった為に、 外国から軍隊が侵入し、好き放題されて、 それを止めることが

出来なかった訳です。

このあたりの事も、注意深く観察して、未来に生かして行く必要があると思います。

口で平和を叫んでいただけでは、実際には 民族の独立と維持が難しいようです。


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 ところで、劉永福 総統が本陣としていた ゼーランディァ城と言うのはどういう

城かというと、1627年 つまり、 日本で言うと大阪夏の陣が終わって、12年

程度過ぎた江戸時代の初期の頃、この台南にオランダ人が攻め寄せ、 この

地方を占領し、台南にオランダ式の城を築いて、 貿易を行うのに ここを中継

の港としたのです。

 商船で日本や中国に船を進める場合、 どうしても食糧品や真水が必要です。

そこで、ここ台南に城を築城し、 中継基地としていたのです。

 ここ 台南のゼーランディア城は、 台北の北の淡水のアントニー要塞とならんて゛

オランダ人の拠点であったのですが、 1665年頃、 明国の残党の軍勢が清国

との戦争によって、大陸を追われ、台湾に上陸し、オランダ人と戦争となり、オランダ

人を皆殺しにしてこの地方を占領したのです。



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                    【 台南 ゼーランディア城 】


    そんな経緯の ゼーランディア城に本陣を置いて、台南民主国側も、日本軍

 を武力討伐しようと軍勢を東に進めていったのです。

 その目標は、 近衛師団が陣を敷いていた 新竹 という町であったのです。


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       清国からやってきた、劉永福 総統の軍隊は、台湾の人を強制的に

    日本軍と戦わせるために 兵士として徴用し、 拒否をすると 日本軍の

    協力者というレッテルを貼って、 捕らえ、 広場で公開処刑を行って

    見せしめとし、 人々は仕方なく、 日本軍討伐の軍勢に加わっていった

    のです。


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    その装備というのは、 台湾の伝統的な武器と、 アメリカの南北戦争など

  で使用された後に、スクラップ同然の 前込式の旧式小銃などであったのです。


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         特に、ドイツ人の貿易商は、清国から法外な金額で請け負い、

       古い二足三文の兵器を 台湾に持ち込んで、 台南民主国側に

       提供していたようです。


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      清仏戦争や、日清戦争の行われた当時、 ドイツ帝国は清国に多額の

    金銭で古い中古兵器を売り込み、 大きなシェアを確保していたようです。

    つまり、どういうことかというと、 イギリスやフランスやオランダは、清国が

    武力を持つと都合が悪いので、兵器などは渡さなかった様です。

    ところが、ドイツはどんどん、小銃、大砲、軍艦などを清国に売り込んでいった

    しかし旧式兵器で、これらを用いて戦争を行おうとした清国は、フランスに

    戦争を仕掛けて、なんと1時間程度で、23隻の軍艦が全滅し、 フランス側

    は軽微の損害しか受けなかったように、 軍事力としては低レベルであった

    ようです。


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    むりやり徴用され、 旧式の武器で、寄せ集めの軍隊の台南民主国の

  軍勢は、日本の近衛師団が陣を敷く 新竹に向かって進撃を開始し、途中の

  村々で、日本人と戦うよう強制し、若者達を無理矢理兵士に徴用して、どんどん

  数を増やして 東に、東にと進んでいったのです。



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      その人数は、1万を越えていたとか、言い伝えがありますが、しょせん

      寄せ集めの軍勢であったようです。

      明治28年7月の焼け付くような日照りの中、乙未戦争の大規模な

      武力衝突に発展していったのです。




      【明日に続く。】