第1759回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1758話 日清追加賠償請求の事。 2017年3月15日水曜日の投稿です。





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   「 大ニッホン帝国、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。」 と、連戦連勝

  の報道で、 日本国民の熱気は上昇し、 この当時から、高麗の人や清国の

  人を 見下した発言や、行動が 日本人に見られるようになって行ったようです。

  今までは、 掛け軸にしても、文房具にしても、 「清国よりの渡来品です。」と

  宣伝すると、 にせ物でも、倍以上の値段がつく程度、日本人が尊敬していた

  大陸の人や物は、日本陸軍の世論操作と、それに協力する新聞記者の連日

  の宣伝報道で、人格や人権が否定されていったのです。



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   日本の内閣総理大臣伊藤博文さんと、 外務大臣陸奥 宗光 さんが

  一緒に出向いて、 有利な条件で 日清の講和条約が締結されたという報道が

  既に行われ、万歳三唱が続いていた当時、 条約締結からわずか2週間後に

  雲行きが怪しくなり、7月に入って 清国人の手のひらの上で裸踊りさせられて

  いた事がわかっていき、 日清の講和条約は 紙くずになっていったのです。



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    清国人と、ドイツ人、ロシア人、フランス人の圧力に屈して、 多くの兵士が

  血を流して占領した、 遼東半島と、山東半島を清国に返還するなどと、発表

  すると、世界の物笑いとなり、 日本国民がどう思うかーーーー、考えた時に、

  苦渋の決断を迫られていったのです。


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             【 結核で 血を吐いて倒れた 陸奥 宗光 外務大臣


    その当時、外務大臣であった 陸奥 宗光 さんが 結核になり、血を吐いて

   倒れ入院し、 日本の外交は 伊藤 博文 内閣総理大臣が、外務大臣兼務

   となり、 難しい舵取りを行っていたのです。


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     陸軍の山縣 有朋公は、 「 俊、 やっぱり、和平などせんと、北京を

  攻略しとけゃーえかったんじゃ、 ここ 今に至って、 金で話しつけにゃー

  しかたなかろうが。」 と、 こう言う話しになっていき、 日本側が、清国の領土

  を返還する条件として、 さらなる賠償金の積み増し、 4500万円、 清国の

  貨幣で、銀3000万テールの要求を大日本帝国として請求し、 支払いが終

  わるまで、軍隊は撤退しないという事が取り決められ、外務省から、各国の

  大使に通告が行われたのです。




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  実は、 金のとぼしかった清国は、日本側の要求に対して難色を示し、金策

に走る事になるのですが、 この資金を提供したのは なんと、後のお話しでは

ロシア帝国であったそうです。

 その交換条件として、ロシアのシベリア鉄道を 清国領 満州に線路を延長し、

 遼東半島の大連、旅順にまで鉄道を敷く事を認めさせ、合わせて日本陸軍

 撤退を強く求めていったのです。


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   当時ロシアは、冬場になると、港の海面が凍結して、船舶の出入りが制限を

 受けていたのです。

 一年中 海面が凍らず、使用出来る港がほしかったわけです。

 そして、 そこに 鉄道の駅を造り、 その線路をシベリアを通じて、ヨーロッパに

 通すことで、 貿易を行い、物資を持ち込みたいという思惑があったようです。


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 それだけなら良かったのですが、ロシア帝国は現在の中国東北部を占領して

 いずれは清国を征服して、中国全土を手中にしようとどんどん外向的な手を

 打っていったようです。


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                      【   林 董  外務次官 】



   そんなことは当時知らなかった、日本の外務省の 林 外務次官は、 清国に

  さらなる賠償金の請求を行っていったのです。

  日本の外務省は、 ロシア帝国の手のひらの上で 事実上、踊らされていた

  のです。


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  平和を保つのは、外交なのですが、 その外交が成り立つのには、同等の

  国力があって、初めて外交交渉が成立し、 国力とは何かというと、軍事力

  経済力であったのです。

  いくら 口で正論を唱えても、 国力、特に軍事力のない国は、力によって

  征服され、 植民地にされていったというのが19世紀の世界であったのです。


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  2年前に インドシナ、 現在のベトナムが フランスに征服され、王朝が崩壊

 し、 アメリカは、 ハワイ王国を占領し、 フィリピンを植民地にしようと手を伸

 ばし、 サイパン島などの南洋諸島は、 大ドイツ帝国が占領して 植民地となり

 どんどん日本の周囲にその波がひしひしと迫ってくるのを感じていた伊藤 博文

 内閣総理大臣は、 日本を守るのにはどうしたら良いか、 暴走する陸軍の軍人

 を抱えて、難儀をしていたようです。


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 そう言うわけで、 押しよせる西洋人の東アジア植民地支配の防波堤として

 台湾をいち早く押さえ、 ここを防衛拠点とし、当時、朝鮮の王朝と同盟を結んで

 日本と朝鮮とで、 なんとか、西洋支配を食い止めようというのが、伊藤さんの

 考えだったようですが、 山縣 有朋公 達、陸軍の幹部は、朝鮮をいずれ

 占領し、 台湾を拠点に、清国に打って出ようと考えていたようです。

 

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   朝鮮半島の北の遼東半島がロシア領になると、日本はそれ以上北には

  進めなくなったわけです。

  台湾は、 西部から清国に通じる 拠点として地理的条件が整っていたのです。

  それ故、 一刻も早く、台湾を平定し、 国際社会に日本領と言う事を周知させる

  ことが必要があったようです。


     【 明日に続く。】