第1763回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1762話 近衛師団の報復の始まりの事。2017年3月19日日曜日の投稿です。
1895年 明治28年 7月13日 台湾駐留 近衛師団 第3連隊 第6中隊
事件を 桜井小隊事件と言いますが、 当時 この事件を受けて、 戦友の仇を
打つべく、近衛師団全体で、ゲリラ討伐作戦が行われていったのです。
まず集落を遠巻きに包囲し、 逃走する者がいたら、 撃ち殺せるように
布陣し、 一部の部隊が 住民を家から引きずり出して、 家の中を家捜し
するわけです。
しかし、考えて見ると、少し思慮が足りず、感情的な行動であったのです。
相手も馬鹿ではないので、 家の中や、人目につく場所に日本兵から奪った
小銃、弾薬を保管しているわけがありません。
これらの行為は 逆に 台湾の人達の反発を招き、 清国人の思うつぼに
近衛師団がはまっていったのです。
台湾の人達から見ると、 言葉のわからない 日本兵が大勢やってきて、
小銃に銃剣を着剣して、 家の中に土足で入り込み、 住民を外に連れ出し、
家の中、 床の下、 天井は、銃剣で 突き刺して歩くわけです。
苦情が出て当たり前です。
そして、口答えしたり、 抵抗すると 問答無用で発砲して 射殺するわけ
ですから、台湾の人に怨まれていったのです。
そして、 初めは 清国人のゲリラ抵抗が、 どんどん台湾の部族に広がって
行ったのです。
このような経緯で、日本人と台湾人は 清国の黒旗軍の思惑通り、手のひら
の上で 裸踊りして、 憎み合い殺し合いをするようになって行ったのです。
台湾の台北で 台湾施政式を執り行ったものの 形だけのものとなり、
兵力の半数は 伝染病で行動不能となり、 伝染病のため、日本に
病人を連れ戻ると、病気が拡大することを恐れ、 それも出来ず、台湾の
住民のゲリラ活動や、 清国人の破壊工作、 台湾に蔓延する アヘンの
患者の問題、 次から、次に吹いて沸いて出る難題に、 台湾総督 樺山
資紀 海軍大将は頭を抱えることになっていったのです。
ちょうどその頃、 ある陸軍大尉が 本土から 台湾総督府の参謀として
派遣され、台北に赴任してきたのでした。
【 明日に続く。】