第1764回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1763話 台湾総督府 河合参謀の事。2017年3月20日月曜日の投稿です。





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   前話で紹介したように、 1895年 明治28年の7月の中旬、 近衛第3連隊

の 桜井茂夫 特務曹長以下 34名がゲリラに殺されて全滅する事件が起きた後、

仇を討つと称して、 台湾の現地の人達の家を家捜ししたり、 そういう行為が重

なって、 日本の近衛師団と、現地の台湾人の間に溝が深まり、不穏な様相を


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ていしていた 8月、 風土病、伝染病で倒れた、半数近い近衛師団の病人も

看病が必要で、 次々毎日のように 伝染病による死者が後を絶たず、 樺山

台湾総督は頭を抱えていた当時、 輸送船で基隆【キールン】の港にある陸軍

大尉が降り立ったのです。



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        【 河合 操 【 かわい みさお】 陸軍大将 大分県杵築市出身 】


  その参謀の名前は、 河合 操 陸軍工兵大尉であったのです。

 彼の仕事の内容は、 1ヶ月後に内地から派遣されるであろう増援の陸軍の部隊

 の補給、兵舎、などなど、 諸々を下準備する計画案を立案し、 補給物資の

 運搬経路、 荷揚げをする港の整備、 道路の整備まで 幅広い任務であったの

 です。


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 河合 操さんは、 私達海軍兵学校 第52期の生徒が1号生徒の時、つまり

 大正12年に発生した 関東大震災の時に、陸軍参謀総長 陸軍大将で

 あった人でした。

 そんな 河合 操 陸軍大尉が、 樺山総督が司令部を置く、台北に到着し、

 着任の挨拶をするため、面会をしたそうですが、 現状の台湾の情勢を聞くに

 及び、「 そのような事は後々に禍根を残すだけで、有益にあらず。」と、申立て、



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   すぐさま、現地の台湾人に危害を加えない、別の方法を提案するに至った

   のです。

   現地の台湾人と事を構えて、喜ぶのは、抗日を煽動する清国人の工作員

   清国人の手のひらで裸踊りは止めて、別の方法で、ゲリラ対策を行い、清国

   人を台湾で孤立させていこうという作戦を申し立てたようです。


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   その方法とは、 樺山 資紀 台湾総督が聞くに及び、「 ふーーーん。」と

   うなるような簡単で、兵力も必要ない効果的な作戦であったのです。 

   当時の樺山総督は兵力がとぼしかったので、「 よし、おまんの船に乗ろう。」

   「 河合、おまんの考えで船を作ってたもんせ、おいらは、その船に乗るでご

   あす。」と、 こうなっていったようです。


   【 明日に続く。 転載、コピー可 自由 】