第1799回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1798話 遼東半島還付条約の事。2017年4月23日日曜日の投稿です。





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   日本の 林 特命全権大使達が、北京に出向いて、命がけの交渉を行い、

 清国の 李 鴻章 らと、結論を出したのは、 遼東半島を清国に戻して、 実際

 にはロシア側に引き渡すのですが、引き替えに、3千万両のお金を日本側に

 数年間に分けて支払いをするという約束を取り交わしたようです。



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     遼東半島というのは、 旅順や大連がある地域で、 この時、「この半島を

  無理をしてでも、 日本で押さえておくべきであった。」 と言う意見が多くあり

  ますが、当時の軍事的緊張から、 ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、アメリ

  などと、対立するのは得策ではないと考えたようです。



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   当時 3千万両というお金が清国には払えず、 数年に分けて支払いをする

 というお話しだったようですが、 日本側が撤退した後、 不渡りになったらいけ

 ないので、 支払いが終わるまで占領する、 つまり保証占領する事を承諾させ

 たようです。



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   これらの事は、 清国と日本の国際条約として、 フランスやドイツ、ロシアなど

 に通告されたのですが、 これらの3カ国は、 清国は崩壊する末期症状と考えて

 次々、 清国に対して 謀略を仕掛けていくのです。

 

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    当時の日本の国家予算が、8000万円の当時、 初めの賠償金のお話し

  が、3億6000万円  そして、 遼東半島還付条約の賠償金を日本円に直

  すと、4000万円程度と言われていて、 たいそうな金額だったのですが、

  日本陸軍や、日本海軍、 そして、一般国民から 非難の声が上がっていった

  のです。

  ここで、強気に打って出て、 フランスやドイツやロシアと戦争を始めるべきで

  あったのか、 それとも、 別の方法があったのか、 後の人達は、口をそろ

  えて、「返還すべきでなかった。」と語る理由は、 「返還していなければ、

  日露戦争で、旅順での大量の戦死者や、国力消耗は無かったであろう。」と

  語るわけです。



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   はっきりしているのは、 明治27年から、 陸軍の宣伝工作の片棒を担いだ

 新聞記者によって 一方的な新聞記事が書かれ、 日本列島、津津浦々まで

 これらが配られ、 これらが繰り返されることで、 日本人の考え方、 言葉が

 変化して行ったようです。

  それまで、 朝鮮半島の高麗、 大陸の清という国は、日本人にとって、

 尊敬に値し、 書画、骨董、文房具など、 渡来品として高値で取引されて

 いたのですが、 見下されていったのです。


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   日本人が 新聞記者に踊らされ、 態度が大きくなり、人権侵害を平気で

  行うような国民になっていった、分岐点というのは、1894年 明治27年の

  夏頃からと思います。


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   1894年から1945年の東京などが灰になるまで、51年間 これらの事が

 放置されたというか、 さらに 新聞報道で煽られていった結果、 多くの人が

 不幸になっていったと思います。

  もう少し別の方法がなかったのかと、ーーどうすれば良かったのかと、思います。

 平和を維持するというのは、口で言うのは簡単ですが、 大変難しい事です。

  次のお話しは、 この遼東半島還付条約が話し合われていた当時の事件を

 一緒に考えていきたいと思います。



    【 明日に続く。】