第1803回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1802話 李氏朝鮮 神貞王后の事。 2017年4月27日木曜日の投稿です。
【 第26代 高宗 国王 】
【 前話の続きから。 】
日本の幕末の慶応の前の元治元年頃、 つまり徳川幕府が長州征伐
を起こしていた当時、 朝鮮半島の国王に座った、 高宗は、若干11才の
おとなしい暗愚な少年でした。
そこで、摂政を置いて、政治を代行する事が安東金氏らの重臣によって
決められたそうです。
その摂政というのが女の人であったそうです。
【 摂政 神貞王后 しんていおうこう 】
神貞王后という人はどんな人かというと、先々代の憲宗国王の その母親で
あった人で、王族の脇の端の身分であった高宗を この人の養子にして、
形式上、国王にしたようで、 養母 という立場になる人でした。
少しややこしいのですが、 当時、自分達の権力を保つために、血のつながり
の薄い人でも、形式上 養子にして、 その養子を 王様に据えたようです。
【 神 貞 王后 に接近し、権力をつけていった 興宣 】
この神貞 王后が摂政をする時代が数年続き、 国王の髙 宗は少年のため
政治のかやの外に置かれ、 政治の実務に権力を得ていったのは、 髙 宗
の父親の 興 宣 という人物であったのです。
彼は、摂政であった 女性の 神貞 王后の機嫌をとりつつ、自らの政治力を
王様の実父という肩書きで蓄えていき、 権力者であった 安東金氏を追い出し、
自らが政治を行おうと計略を巡らせていったようです。
その計略とは 古くさい手ですが、 非常に効果があった婚姻でありました。
勢力が大きかった 安東金氏に対抗する為、第三勢力の麗興閔氏【れいこう
びんし】に協力を求め、 麗興閔氏の一族の娘を 高宗 国王の 妃に据えよう
と策略を巡らせていたのです。
この婚姻が成立すると、 まだまだ 権力基盤が弱かった、興宣一派は
閔氏一派と、親戚となり、 巨大な力を持っていた 安東金氏に対抗できると
当時考えていたようです。
【 いろんな人の思惑で、妃となった 閔妃 びんき 】
麗興閔氏の一族は、 興宣をとりあえず利用して、 一族の閔妃を皇后に
据えて、 安東金氏と興宣をケンカさせて、 両方が弱った時に、両方とも
追い出して 自分が権力を取ろうと考えていたようです。
閔妃が 高宗の王子を産めば、 皇太子の祖父という身分になれ、損は
ないと考えていたようです。
それまで、爪を隠して、 安東金氏と 興宣の両方の勢力の機嫌をとって、
勢力を蓄えようと考えていたようです。
朝鮮の王宮は、 大きな目で見ると、 60年ほど政治を動かしていた安東金
氏が国王の実父達によって、徐々に放逐されていき、その後どうなっていったかと
いうと、 興宣が国王の父親という身分で政治を動かして行くようになって行ったの
です。
軍艦が押しよせ、 李氏朝鮮でも 日本の黒船同様、大騒ぎになっていったの
です。
日本には、1853年頃 黒船が来たのですが、 朝鮮半島には少し遅れて
1866年頃、つまり13年後、 押し寄せて来たのです。
それらの西洋人に対して、朝鮮人はどう対応していったのでしょうか。
【 明日に続く。】