第1805回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1804話 フランス極東軍の事。 2017年4月29日土曜日の投稿です。




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   1866年 日本では幕末の慶応2年頃の出来事ですが、 となりの朝鮮半島

  では、カトリック キリスト教徒の弾圧が行われ、およそ8千人の人が、 高宗

  国王の乳母 の 朴 マルタ なる女性と フランス国が通じて、 国をフランスに

  売り渡そうとしていた、 つまり 売国奴であると称して、 無実の人が逮捕され

  次々、罪を作られて、拷問され、 殺されていったのです。

   ここまでが、前回の 第1803話の紹介でした。



 【 第1803話の続きより。】


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    清国の首都 北京の東南に 天津 という港があって、当時フランスの極東

   軍の司令部があったのです。

   ここに、前話で紹介した、フランス カトリック教会の フェリックス クレール 

   リデル 神父が、 朝鮮半島を脱出し、海岸沿いを逃走して、天津に至り、紹介

   した、フランス極東軍の司令部に駆け込んで、 朝鮮半島の虐殺事件を伝えた

   のです。



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   当時の司令官は、 フランス海軍の ピエール ギュスターブ ローズ少将

   であったそうです。

   ローズ少将は、 朝鮮半島のフランス人虐殺事件をこのまま放置すると、

   その火が飛び火して、清国で、 フランス人を迫害する素因になる事を恐れ、

   フランス人を殺害したらどうなるのか見せつけるべきと考えて、 北京に

   出向いて、当時の北京駐在のフランスの アナドリ ド ベルネ代理公使

   に対して、 対 李氏朝鮮への報復攻撃の意見具申を行ったようです。


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  当時、北京に駐在していた、 フランスのアンドリ ド ベルネ代理公使は、

 あいづちを打って、 「 同感だが、 李氏朝鮮は、清国から見ると 皇帝の家臣と

 言う位置ずけであって、 家臣を攻撃して、清国の皇帝をも敵に回してしまうのは、

 いかがなものかと言う事と、 フランス本国政府に許可を取らずに、李氏朝鮮

 を攻撃した場合、 後日、お咎めが来たらいけないので、軽挙妄動はしばらく謹

 んで物事は順番に手続きを進めていくべきである。」と、提案したようです。

 
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  しかしながら、どこの国の軍人も 暴走するというか、 なんというか、 「 そんな

悠長なことを言っていたら、 勝機を逃してしまい、もしかすると 天津に 朝鮮人

攻めてくるかもしれぬ、 先手を打って、 朝鮮の王宮を攻略し、 植民地として

手柄にせん。」と、 言い放ち、 フランス極東軍のみで 李氏朝鮮を武力討伐する

事になっていったそうです。


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  そんな経緯で、 フランス海軍の 極東軍司令官の独断で、本国政府の許可を

待たずに、 李氏朝鮮の王宮のあった、現在のソウル こと、当時の漢城を占領する

計画の立案がされていったそうです。

そして、日本の横浜に駐屯していた、フランス軍の兵士や艦艇も、朝鮮半島めざして

出陣していったのです。

 これらのフランス軍の動きを見ていた 江戸幕府はいずれは我が身と悟ったよう

です。

  戦後の現在知る人はいないのですが、当時江戸幕府は フランスと手を組んで、

 フランス式軍隊の錬成訓練にいそしんでいたのです。

 そして、 薩摩藩は、イギリスと和解して、 イギリス式の軍隊の訓練を行い、 

 江戸幕府も、薩摩藩も、中古の二足三文の兵器を、 新品以上の高価な値段で

 買って、フランスやイギリスの両国は法外な利益を出していたのです。


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    当時の李氏朝鮮の 興宣は、日本で言う、 尊皇攘夷のような事を叫んで、

  外国人を排斥し、 キリスト教を、国を滅ぼす邪教に指定し、 信者を捕らえては

  処刑し、 国内の団結を呼びかけて、 外国人、特に西洋人を悪者にして、

  人々の不満を外に向けさせて、 国王 高宗という次男の息子を 政治のかや
 
  の外に置いて、朝鮮半島の統治を進めていったようです。


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     しかし、当時 日本の横浜や、香港などに駐留していたフランスの艦艇は

     天津に集結し、ここで陸戦隊を編成し、その兵力は1300名程度であった

     そうです。

     いよいよ、フランスが朝鮮半島を植民地にしようと、 兵力を動かして

     行ったようです。


     【 明日に続く。】