第1820回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1819話 丙寅洋擾 【へいいんようじょう】対 西洋人との戦術の事。

                          2017年5月14日日曜日の投稿です。



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  後年、内閣総理大臣であった 伊藤 博文 公が、「 うーーん、朝鮮の人も

たいしたもんじゃのうーー。」と、感心していたそうですが、 清国や日本が外国船

に砲撃して大敗し、多額の賠償金を西洋列強に取られる事になっていったのですが

朝鮮半島は そうではなかったわけです。

 ここが、伊藤 博文 内閣総理大臣が 感心した部分でした。

どんなことを感心したかというと、 過去の戦訓を参考にして、戦争の方法、つまり

戦術を考えて、フランスと戦争をしたわけです。



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  巨大な国土を持つ 清国が、どうして数も少ないイギリスの艦隊に1839年

アヘン戦争で敗れたか、 それは最新式の西洋の軍艦に、従来の木造軍船が

刃が立たなかったからです。

どこが違っていたのか、 それは、火砲の射程距離が 西洋式の大砲が長かった

からです。


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  清国の木造帆船は、西洋の最新鋭の軍艦に近づく前に、遠くから射撃を受け

て破壊されていったからでした。


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    それ故、同じ事を フランスの西洋式の軍艦に仕掛けても、清国のように

 撃退されるので、そのような攻撃戦術は得策ではないと考えたようです。


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   1857年に発生した、イギリスとフランスの連合軍対 清国の軍勢が戦闘を

おこなった、アロー戦争では、海岸から 西洋式の軍艦からの艦砲射撃の支援を

受けた、西洋式の陸上部隊に、清国の軍勢が大敗したのですが、数は清国の

軍勢が多かったのです。

 なぜ、清国が大敗したのか、 朝鮮人は研究したわけです。

 その理由は、 イギリスとフランスの使用する、 大砲の射程が長く、近づく前に

大砲で多くの兵士が倒れ、 もう一つの理由が、小銃の射程が長かったのです。

 つまり、弾が遠くまで届くわけです。

弓矢や、槍、 青龍刀で武装していた 清国の軍勢は、遠くから一斉射撃を

受けて、近づく前に倒されていったのです。


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    これらの戦訓から、日本の長州 毛利家では、大口径の長距離砲を装備し、

  海岸に台場と呼ばれる 砲台を作って、 ここから海上の西洋の蒸気船に対し

  て砲撃をしたわけです。


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  すると、どうなったかというと、下関という海底の地形から、西洋の軍艦が岸の

近くまで接近でき、 移動しながら動きながら長距離射撃をしてきたわけです。

止まっている目標を打つのは訓練していたようですが、 動き回る目標に対して

狙い越しと言われる、距離を推定して射撃する能力が当時の薩摩藩や、長州藩

には皆無であったがために、 大砲を撃っても命中しなかったわけです。

それ故、一方的に相手の砲弾が着弾して、総崩れとなり、 陸戦隊に沿岸の

砲台を占拠されてしまったのです。


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   そこで、これらの戦訓を朝鮮人は生かした訳です。

  西洋の蒸気軍艦の大砲の射程の中に入らなければ、 損害は出ないわけです。

  決して、その射程の中に軍を進めず、 海岸から距離を取ったのです。

  

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    そして、清国の軍勢が失敗したように、上陸してきたフランス軍の大砲と

  小銃の能力を見極めた上で、 離れた距離での撃ち合いは、避けて、撤退し

  たり、待ち伏せをして、近距離での戦闘に持ち込んで、対抗していったのです。

  どんな、弾が遠くに飛んで、 優秀な兵器でも、隠れていて、 近くに来たら

  飛び出して、接近戦に持ち込んで、相手と互角の勝負をしようとしたわけです。

  これらの戦術はフランス軍にとって、大きな損害を与えていったそうです。

  相手の位置、 それから、兵力、 その規模、 そして 使用する兵器の性能を

  熟知した上で、 旧式の劣勢の兵器の長所が生かされるように、 そういう

  作戦を立案していったのです。


  【 明日に続く。】