第1825回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1824話 丙寅洋擾 【へいいんようじょう】鼎足山城の戦いの事。

                        2017年5月19日金曜日の投稿です。



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   【 第1823話の続きから】

 1866年 11月9日頃、 フランス 極東軍は、ハエのようにうるさくゲリラ攻撃を

してくる朝鮮人を武力征伐するため、 鼎足山 という場所に海軍陸戦隊兵力を進

め、山岳部の攻撃を開始したのです。



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    当時、山の麓から、 大砲を発射して、 山中を制圧射撃を行い、フランス

 側の形勢は良かったようです。

 朝鮮側の 残存兵力は 山中へどんどん後退し、 これを追いかけるように

 フランスの陸戦隊は、山岳部に進んで行ったようです。


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   ところが、当時のフランスが使用していた大砲というのは、大変重量があって

とても、兵士の手で山中の中を進めるような代物ではなかったそうです。



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   そう言うわけで、馬も通らない 山中に、大砲を移動させて 支援射撃を

 行うわけに行かず、 砲兵を山すそに待機させて、 小銃に着剣して進んで

 いったようです。

 日本の西南戦争の時も、同様であったのですが、当時の洋式小銃は、一度

発射すると、装填に時間がかかったのです。

  そう言うわけで、 一度は小銃を発射して、 そこを 薩摩藩士は「 ちぇすとー。」

と叫びながら、 切り込みをかけていくと、 小銃に着剣した兵器では弱かったわけ

です。


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  当時の言い伝えによると、 初めの先頭の部隊は、 茂みに隠れてやり過ごし

後の油断した部隊を、音のしない 弓で攻撃し、 発砲音や、音がしないので、

中段以前の部隊は気がつかずに、どんどん山中に入っていき、 気がついたら

後の部隊が来ないので、 元来た道を帰ってみると、 後の部隊の兵士が全滅

していたと、こんな戦いであったようです。

このような事が続いて、 フランス側は、 鼎山 という場所から 海岸の艦艇の

艦砲射撃の可能な沿岸部に退却していったようです。



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   西洋の兵器というのは、 弾が遠くに飛んで、威力があったのですが、接近戦

 の白兵戦になると、 士官は、短銃にサーベル、 兵士は 小銃に銃剣を着剣

 して、 どちらも突いて相手を殺害する方法であったようですが、 朝鮮人

 山中に相手を誘い込み 地形を利用して射程の短い弓で相手を襲い、そして

 柄の長い槍を投げつけて、 相手を傷突け、 刀を抜いて とどめを刺すという

 戦術であったそうです。



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   フランス側は、本国に報告して、本格的に輸送船で 陸軍部隊の派遣を要請

して、兵力を整え朝鮮を征服するか、 どうするか、決断を迫られていったのです。

 水兵に小銃を持たせた、小規模の陸戦隊では、部分的に戦闘に勝って、その部分

を占拠しても、 ずっと その場所に駐屯するわけにもいかず、 とても朝鮮半島

全体を征服するというのは無理であったのです。

  そして、ローズ海軍少将は、7隻も艦艇を集めて、朝鮮人との戦に負けたと言う

事が他国や、本国に知れると、自分が極東軍司令官を解任されるのではないかと

自分の立場を心配する様になっていったようです。



   【明日に続く。】