第1826回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1825話 丙寅洋擾 【へいいんようじょう】フランス人神父の開放の事。
2017年5月20日土曜日の投稿です。
封鎖を受けて、膠着状態となって行ったのです。
【 国王 高宗の父親 大院君 興宣 】
当時の朝鮮の実力者であった 大院君 興宣は、どうしたかというと、西洋人
の脅威を強調し、身分を越えて団結を呼びかけ、 自らの独裁体制を強めていき
いったのです。
当時の朝鮮というのは、捜査などあってないようなもので、 政治犯というのは
一方的に捕らえられ、 牢屋は、自白を強要する間の豚箱で、 興宣の指名した
役人が、勝手に罪を考えて、 拷問して、罪を強引に認めさせて、 処刑していくと
いうとんでもない時代であったのです。
つまり、 犯人を捜すのではなく、 作っていくのです。
このような仕組みで当時、 なにも罪の無い人達や、その親族が命を落として
いったようです。
またその処刑方法と言うのも 残酷刑で、中国式の恐ろしい刑がたくさん当時
あったそうです。
みなさん、日本の統治時代は、理不尽な事も多々あったと思いますが、こういう
独裁政治の封建政治と比較すると、これらを否定し、 庶民の身分を無くし、みんな
平等で、裁判を起こしたり、受けたりする権利が認められ、そして、農村や商家の
労働から子供を開放し、義務教育を始めて、 だれもが読み書きが出来る様に行政
を進め、宗教の自由が認められた時代と比較すると、 李氏朝鮮の時代は、だれが
みても よい時代ではなかったと言わざるを得ません。
しかしながら 朝鮮半島の人達からすると、母国語を禁止され、日本語を強要
されていったと言うことも日本人の理不尽な事の一つでありました。
ところで11月になって、李氏朝鮮側は、捕らえていた フランス人神父2名を
開放し、清国人の行商人に預けて、中国に送り返したようです。
捕らえていても仕方がなく、 殺してしまうと フランス側の反発を招き、そして
国内に釈放しては、 御禁制のキリストの布教を行うであろうし、 それはまずい
ので、今現在で言う、国外退去処分にしたようです。
こうすることで、 フランス側の要求してきた フランス人神父の開放の要求は
黙殺して 返事を行わす゛、 一方では、 違う場所で フランス人神父を追放して
開放することで、 フランス側の戦の大義名分を無くしてしまおうと考えたようです。
【 明日に続く。】