第1827回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1826回 丙寅洋擾 【 へいいんようじょう】 フランス極東軍の判断の事。


                         2017年5月21日日曜日の投稿です。




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    李氏朝鮮キリスト教迫害、 丙寅教獄【へいいんきょうごく】と呼ばれる

一連の弾圧で、フランス人宣教師9名が殺害され、2名が捕らえられ、1名が脱出し、

助けを求めて、フランス極東軍の司令部に駆け込んで、発生する事になった武力

衝突を、丙寅洋擾 【へいいんようじょう】と総称し、1866年 日本の慶応2年

の11月の中旬、大きな流れが変わる出来事があったのです。



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  2名のフランス人宣教師を、李氏朝鮮側が、清国に送り届けたことで、フランス

側は、ひとつの目的が達成され、 今後の方針を司令部で考えるようになっていった

のです。


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  当時司令部を悩ましていたのは、 弾薬の補給が本国から遠く離れ、思う様に

ならず、イギリスやドイツ、アメリカなどから取り寄せるにしても 間に合わず、食糧

も開戦から1ヶ月程度で、 底をついてきたのです。

 そう言うわけで、一度、天津に撤退し、 諸外国には、戦火を交え 朝鮮に一撃を

加え、 フランス人開放に成功したと、宣伝する事で、 フランスの小競り合いでの

敗北を隠して、物事を治めていこうと、 こういう考えが主流になっていった様です。



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   このまま、江華島沖合を海上封鎖しても、意味が無く、武器があっても、

弾薬の補給がなくては、相手が攻撃して来ても、応戦するのも限界があるため、

フランス極東軍は、天津に向けて一度 撤退することになったのです。

当時、 フランス側は、「朝鮮との戦争で勝ちました。」と、世界に向けて発信し、

朝鮮側は、「 フランスを撃退しました。」と、清国などに伝えたと言われています。



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   ところで 当時の朝鮮では、日本の尊皇攘夷思想に相当する、西洋人打ち

払い令が各地に高札が掲げられ、 西洋のキリスト教の信仰の禁止、西洋人を

殺してしまえと言う、 そう言う考えが広がっていったのです。




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                         【 大院君 興宣 】


  当時の政治を動かしていた、日本の大老の職に該当する、大院君 興宣 は

人と、人を 身分で分断し、 忠義と奉公という思想で人々を支配する 封建主義

をどんどん進めていき、 身分社会で発生してくる人々の不満を、西洋からの

武力攻撃を撃退したと広く宣伝し、西洋人の脅威を宣伝する事で、人々の不平

不満を 西洋人に向けさせて、 油を流して火をつけて、風を送って煽っていった

のです。



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   そうすると、いつの時代も自分の考えがはっきりしていない、考えの浅い

 若者達が、 政権の煽動によって、 飛び跳ねていく人が出て来るわけです。

 次の事件は、 そんな朝鮮半島で起きていき、次の武力衝突に発展していく

 のです。


  【 明日に続く。】