第2634回 広島県福山市 坂本龍馬の所縁の地を楽しむ。模型公園

みなさん、こんばんは 模型公園です。 2017年5月24日水曜日の投稿です。



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           今日の模型公園の家の近くは朝から雨です。


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    今日は 広島県福山市鞆の浦をテクテクしたお話しです。

  



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    今から150年前、 慶応三年5月26日の23時頃、大洲藩所有の いろは

丸と、徳川御三家紀州藩の明光丸が上の写真の水平線程度で衝突して、

坂本龍馬が乗船していた いろは丸が 沈没したのです。


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   で、ピストルも刀も全部沈んで、ふんどしだけで、なんとか上陸したのが

   ここの 広島県福山市 鞆の浦【とものうら】の港であったのです。

   ここは、 足利将軍の最後の将軍 足利 義昭 公が 織田信長に追放

   されて、 この鞆【とも】で、足利 幕府を置いて、 毛利の軍勢と手を結んで

   戦っていた場所でもあります。


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    今日のお話は、 坂本龍馬の滞在先などをテクテクしたお話しです。




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  ここが、 すってんてんになって、 なんとか 数日無一文で逗留させて

  もらった 家らしいです。


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      この標柱に色々書いてあるのですが、 この家で龍馬がお世話に

      なったそうです。

      ここへ泊まったのは、 翌日ですから、慶応三年5月27日という

     ことになりますね。



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   当時、 いろは丸は、伊予国 大洲藩の所有で、 動かす人材がいなかった

  らしく、亀山社中が レンタルして 使用料を払っていたそうです。

  その使用料は、1ヶ月千両だったらしいです。

  今の現在の貨幣価値にすると、 そうーーおよそ 1億円程度かーーー。

  大洲藩は、いろは丸を長崎で3万3千6百両 つまり33億6千万円程度で

  買っていたそうで、2年8ヶ月 亀山社中が使用して、借船代を支払うと

  元が取れて、その後、利益が発生する計算であったようです。



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   それが、 長崎の商人から借金して、積み荷を買って積んで大阪に移動中

 海難事故になり、 全部沈んで、 ふんどし だけになってしまったのですから、

 「 大変なことになったぜよ。」 と、 こんな感じで声が聞こえてきそうですね。

 普通の人だったら、 切腹しようにも、 刀は沈んでないし、 クビをくくって、

 首つりでもしたかも知れませんね。



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  そんなことを考えながら、テクテクしていきます。


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     「 なんや、 めずらしいやんか。」 と、大阪弁が聞こえて来ました。

     このお店は、鞆の古いお酒を造って販売しているお店です。



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   大阪のほうのおじさん2人が、 お酒を 試飲みしていました。

   僕は、 営業してもお酒を買いそうにないので、声がかかりませんでした。


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   ここのお店は、保命酒 とか、みりんを売っているようです。



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   右の方を見ると、僕が興味を持っている 備前の徳利が展示してありました。


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   昔は、 備前の伊部に頼んで、 お店のマークや、お店の名前を刻印して

  もらって、 焼いた物を船で 海路 鞆まで運んで、 この入れ物に お酒を

  入れて販売していたそうです。

  当時は、 備前焼ではなく 伊部焼【いんべやき】と、呼んでいたそうです。



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   こういうのを 商売人の間では、備前角徳利と呼びます。 表面の細工が

   きれいですね、 姿から 嘉永から慶応、明治頃の品ですね。


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     いろんなデザインがあって、 楽しいですね、 コレクションすると楽しい

   ですよ。


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         鞆のお酒を入れる徳利は、 木ノ庄焼や、虫明焼などもあって

         勉強して愛玩すると 楽しいですよ。
        

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  「 ねえねえ、 おばちゃん、なんか こうてかえるけぇ ちょっと 勉強

   してえや。」 と、 早速 商談にーーーー。 



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          みりんを買って、  保命酒のアメを3個 勉強してもらって

          食べながら 鞆の町を 歩くことにーーー。


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 「 模型公園ちゃん、ばいばい ありがとね。」 と、 感じの良い奥さんでした。

 みなさんも 鞆の浦に来たら、 買い物によって お酒を買ってあげてください。



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   こんな 風景を楽しみながら、 テクテクしては、写真をぱちぱち しながら

   進んで行きました。


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      ほうーーー観光鯛網 ぼくも 見たいですね。


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        ほーうーー 面白そうですね。 






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     歩いていると こんな看板がありましたよ、 ふうーーん、 龍馬が

   事故相手の 紀州徳川家と 損害賠償交渉をした お店があるそうです。



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      道中、こんな 雰囲気の建物があります。


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           こういう文書を見て、 歴史を感じながら歩くのは良いですね。



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     龍馬の宿から すこし上り坂となっていて、 前の画像の商家から

     今度は 下り坂になっていきます。



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        ここのお店が、損害賠償の交渉の場所であったそうです。


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  沈んだ方は、土佐の浪人、 衝突した方は、徳川御三家紀州藩、 損害賠償

を請求して、「無礼者、ひかえーぃ。」と、 怒鳴られて、 一文にもならなかった

そうです。




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   窓には ステンドグラスとか、 モダンな雰囲気で とっても良い感じです。




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  この石垣の上は、鞆城 という、 砦のような陣屋があったそうです。

  今は 鞆の資料館になっています。

  

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     どんどん上がっていきます。



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        上から撮影すると、 こんな きれいな風景が広がっています。



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   ところで、 紀州藩の明光丸は、龍馬達を 放置して、長崎に行ってしまい

   龍馬は、 すってんてんのまま、 長崎まで追いかけて、 日本で初めての

   海難審判の裁判を開いて、 裁判官に イギリス人判事を据えて、 紀州藩

   から、7万両の損害金を取ることに成功するのだそうですがーーーー。

   現在の貨幣価値にすると 70億円程度ですかーー。



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   この代金を受領して 数日後、 京都で亡くなるのですが、 命を捨てて

   物事に取り組む姿は、まねが出来ないですね。


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                 じゃあ、みんな また 明日ね。


         【 明日に続く。】