第1854回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1853回 征韓論と三菱商会の事。 2017年6月17日土曜日の投稿です。
変更し、 明治5年に、経営資金を調達する目的で出資者を募り、三川商会と商号
変更し、そして、明治6年に、三菱商会 と商号変更を行ったのです。
この三菱商会の代表者、統帥者は、幕末から一貫して、 岩崎 弥太郎という
人物で、 彼は藩政時代、 農民の下の身分、茶筅、非人などと同様の、竹籠
を作って売る身分の低いどん底の貧しい家庭の子供でした。
そんな彼が、 土佐藩 大阪屋敷 総取締役 小参事になれた理由は、 お金
実績を上げていっったからでありました。
身分が武士の 藩士からすると、 げせんの身なれど、役にたつ人物であった
のです。
そんな 三菱商会を 潰さずに、金儲けを続けて、資金を増やして行くには、
たえず、金儲けに走って、 とんどん、お金を回転させて行く必要があった
のです。
つまり、止まってしまうと、飛行機と一緒で 墜落してしまうのです。
どうしても どこかで戦争を起こして、 その軍需景気で、お役所の仕事を請
け負い業績を伸ばす必要があったのですが、 当時の明治政府には 年貢の
収入が少なく、 朝鮮との戦争をする費用がなかったのです。
戦争借款 つまり、 朝鮮人の生意気な行動に腹を立て、 フランス極東軍が
朝鮮人と戦火を交えた、 丙寅洋擾 【へいいんようじょう】を伝え聞いて、フランス
から軍事費を借りて、 フランス人の遺恨を明治政府が請け負って、 生意気な
朝鮮人を武力討伐をしようと提案したのです。
「 フランス人は、朝鮮人にフランス人神父が殺害され、 絶対に喜んで、銭を
出すに違いない。」 と、板垣退助らは、申し立てたようです。
そんな計画を、 否定したのは 薩摩藩出身の 大久保 利通 内務卿【内務
大臣に相当】であったのです。
その理由というのが、最新の西洋視察で得た情報として、フランスは、プロイセン
大敗し、 そんな他国に融通する銭は無いであろうと切り捨てたのです。
西洋の政情に疎かった、征韓論の支持派は、 軍事費が無いことを突かれ、
返事に窮していったのです。
太政大臣代理、 右大臣 外務卿 の岩倉 具視 は、大久保 利通の
意見を、 最新の西洋の動向をつかんだ もっともな意見として同調し、「 他国の
銭をあてにして、朝鮮人と戦争を始めて、 途中で銭が無くなったらどうするつも
りかと三菱の息のかかった 政府高官に詰め寄ったのです。
「 まったく、 先の事を考えない おろかな考えでおじゃる。」 と言って、
自分達の思い通りにならず、だんだん 実力行使で政府を揺さぶろうと陰謀を巡
らせていったのです。
【明日に続く。】