第2661回 岡山県井原市の北条早雲の学舎の法泉寺を見学する。 模型公園

みなさん、こんばんは 模型公園です。 2017年6月19日月曜日の投稿です。



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 今日の模型公園の家の近くは晴天でとっても暑い1日でした。

   もうーー夏の雰囲気でした。



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          今日のお話は、岡山県井原市の法泉寺【ほうせんじ】を見物して

          ご住職に お寺の歴史をご指導いただいたお話しです。



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      神奈川県 小田原市の 北条 早雲 こと、伊勢新九郎は、実は、

    1960年頃の、この法泉寺の古文書の解読した論文を、 1990年代に

    権威ある大学の先生達が、複数で検証し、 間違いのない事実として

    認められて、 ここの法泉寺で、子供の頃、 和尚さんに教育されていた

    そうです。



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    ここが、 正門です。 北条早雲の生まれたのは、永享の頃 と

   言われていて、 金閣寺が出来て、 そうーー30年程度後に 荏原荘

   【えばらのしょう】 という場所の、 この界隈で 幼少期を過ごしたようです。



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                  【  法泉寺の由来の高札 】



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     おや、 なんの花かしらん。 綺麗ですね。




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            これは つばき ですかね、なんですかね。





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          ふうーーーふうーーーと、しながら テクテクして行きます。



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      門をくぐると、ちょうど ご住職と 奥さんが 本堂にいらしたので

     挨拶して、 写真を撮らせていただく事にーー。



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          すごいですねーーー。



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        これが、北条早雲こと 伊勢 新九郎の供養塔が 左で、

        右が、お父さんの 伊勢盛定の供養塔だそうです。

        ご住職に案内していただいて、貴重なお話しを聞かせてい

        ただきました。

        ご住職のお話によると、 慶長の頃、 豊臣氏の軍勢が伊勢氏

        の墓石を 破壊してしまったそうです。
 
         そして、その後、 供養塔が出来たそうです。



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    こちらは、木村 重成の 従兄弟の 重宗の墓石です。

    木村 重成は 豊臣家の 秀頼の小姓で その後、近習旗本となり3千石

    の知行でしたが、 大坂夏の陣で戦死し、 従兄弟の 重宗 がここの

    法泉寺まで 逃れてきて、 匿われ、 後に 出家して、僧となり、この地で

    没したと伝えられているそうです。



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    左の本堂は後の再建ですが、 正面の建物は当時のまま、500年

    以上前のたてものだそうです。

      「 ねえねえ、 ここで、和尚さんに、おこらりょうたんかねー。」と

    ご住職に聞いたら、「 さぁーーしらんのう どうじゃったんかのぅ。」

    とか、 そんなお話しを聞いて、 いろいろ勉強になったのでした。


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           ここの東に3キロ程度行くと、伊勢氏のお城の跡

           があるそうで、ご住職に聞いてね、 行ってみることに

           しました。

           法泉寺のご住職も 奥さんも、 親切でとってもよい

           人柄で、 法泉寺の歴史が勉強できました。


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        伊勢氏 というのは、京都の足利幕府 将軍家の取り次ぎ役の

      身分で、将軍家の秘書のような役職の家柄でした。

      その、本家から 分家して、 備中国 荏原荘 500貫 の知行という

      ので、年間 銭が50万枚程度の年貢が入る 領地の殿様で、

      そこの子息に 新九郎が生まれ、 幼少期を過ごし、 京都の本家に

      養子に入ったのですが、 将軍家が衰退し、駿河に移り住んだそうです。




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                じゃあ、みんな また 明日ね。



          【明日に続く。】