第1857回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】


第1856話 食違坂事件の事。 2017年6月21日水曜日の投稿です。





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  征韓論で対立して、薩摩藩土佐藩肥前藩長州藩の多くの人が

明治新政府から去って、年が変わって明治7年1874年1月14日の正午、

当時の言い伝えによると、東京品川の旅籠にバラバラに集結した、土佐藩

の浪士は、元外務省の官吏で土佐藩の出身であった、 武市 熊吉 ら15名

程度が集結、そのうち、三菱商会の荷駄輸送の人夫に偽装して、当時持ち

歩きが法令によって禁止されていた、襲撃用の日本刀などを、他の荷駄に紛れ

こませ、 先に支援部隊が、大八車を押してバラバラに別方向に出発していった

のです。



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そして、 しばらくして、 手ぶらにゲタ姿の実行犯10名が、それぞれ 怪しまれ

ないように、 バラバラで 旅籠を後にしていったのです。

当時、江戸城は 大火で焼けていて、 明治天皇や、参議などは 現在の赤坂離宮

の場所で政務をとっていたようです。

そして、 食違坂と呼ばれる、赤坂付近で荷駄から武器を受け取って、息をひそめ、

支援の荷駄隊は、怪しまれないように戻っていったようです。




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    襲撃場所に選ばれた、 食違坂という場所は、 なだらかな登り坂となって

  いて、 馬車のスピードが必ず落ちて、そして、左右に待ち伏せする茂みが

  あって、 人家も少なく、絶好の場所であったようです。

  10名のうち、1名は、 何も武器を持たず、 物見に行き、 岩倉 具視の馬車

  の特定を受け持ったようです。

  当時は気温の低い1月で、 日が落ちると、ぐっと寒くなって行ったのです。

  夜もとっぷり更けた 午後20時頃、 物見の下村 義明が走って戻って来て、

  「 そろそろ 来るぜよ。」と、 報告に来たのです。

  「 間違いないか。」 と、問うと、 「 間違いない、供は少ない、やれる。」

  と、言うと、 路肩の左右に忍んだのです。



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   当時の馬車は、 そうーー自転車程度の速度、 若干、馬車が速い程度の

  速度であったようです。

  パカパカ パッカパッカ 馬車と馬のひずめの音がしてきて、旧土佐藩の襲撃

  部隊は、白い息を吐きながら、 刀の鍔のこい口を親指でそっと、前に出して

  柄に手をかけて、手がかじかむ寒さの中、 今か今かと、待ったのです。



  【 明日に続く。】