第1858回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1857回 食違坂事件の戦闘の事。 2017年6月22日木曜日の投稿です。
1874年 明治7年 1月14日 夜の20時頃、 当時の太政大臣代理、
右大臣、 外務卿【外務大臣相当】の岩倉 具視 公を乗せた馬車が、赤坂の
食違坂にさしかかり、上り坂を 「ぱかぱかぱかぱか。」 と 夜の道を進んで
行ったのです。
の首を取り、 次に、 大久保利通の首を取って、 維新 回天を行う事にあった
のです。
正面に 武市 喜久馬、 山崎 則雄、 島崎 直方 が、 すっと飛び出し、
抜刀して、 正面を塞いだのです。
そして、馬車の馬の足に斬りかかったのです。
その目的は、 馬の足を切ることで、馬車を立ち往生させるのが目的でした。
馬車が 急停止すると、 今度は、右の茂みから、 武市 熊吉、下村 義明
の2名が、 「 いわくらーーっ 見参。」 と 叫びながら、 鞘を抜き捨て、走り
よってきたのです。
馬車に乗っていた、 岩倉 公 は、窓から、襲撃を察知すると、護衛の警官に
「 きりすてーぃ。」 と叫ぶと同時に、 車夫に、 「急いで 走り抜けるのじゃ。」
「 はようして、おじゃれ。」 と、大声で叫びちらしたとたん、 馬が斬られ、
「 ひひひひひぃぃーーー。」と、 猛烈な勢いで、、暴走しだしたのです。
護衛の衛視が、サーベルを抜いて、応戦し、 すると 左の茂みから、
岩田 雅彦 、中山 泰道が、「 いわくらーーー、 しにさらせ。」と
刀を抜いて、襲いかかったのです。
当時の警視庁の標準装備のサーベルは、 握り手が短く、細身で 軽かった
のですか、 日本刀と打ち合うと、 片手だけでは相手の刀の打ち込みを支え
きれず、不利であったのです。
岩倉公の乗った馬車は、 ものすごい勢いで暴走し、 走り出したのです。
300メートル程度登った、 左右から、 撃ち漏らしを防ぐ為に、布陣していた
中西 茂樹 澤田悦弥太 が、 前を塞ぐと、 馬は、げしの茂みの中に飛び
込んでいき、 岩倉公の乗った馬車は、崖下に横転し、 岩倉公 は、 放り出
され崖下に転がり落ちていったのです。
実は、 この放り出されて、さらに 転げ落ちたことで、 姿を隠すことになり
命が助かったのです。
「 岩倉をさがせーーぃ。」 と、 土佐藩の武士達が、 馬車の方に目をやり
崖を下っていき、 岩倉公は、 静に夜の暗闇に紛れてうずくまり彼等を
やり過ごしたのです。
少しすると、警視庁の応援が、変事を知って駆けつけてきて、 土佐藩の
武士達は「 ひけーぃ ひけーぃ。」 と叫んで逃走していったのです。
このような形で、 岩倉 具視 公 暗殺襲撃は未遂に終わっていったのです。
この出来事を 食違坂の変、とか、 食違坂の事件と呼んでいるそうです。
【 明日に続く。】