第1877回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】


第1876話 日朝修好条規の事。 2017年7月11日火曜日の投稿です。





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 1876年 明治9年の2月、 日本人が再度 軍艦に乗って 江華島に押しよせた

という、早馬の情報は、当時の朝鮮半島の政治を独占していた 閔妃とその一族を

震撼させたのです。

 というのは、戦争をするお金がなかったのと、 国内で凶作が続いて、食糧不足

が続いていたのです。


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  そう言う状態で、日本と戦争をするのは避けなければならないとの認識で一致

 して、和平交渉と、貿易を行うのは、対馬藩の時もやっていたことで、この際、

 ちゃんと話をして、貿易をするのは朝鮮のためにもなる事で、日本側と話し合いを

 もって、日本人が攻め寄せてこないようにしなければならないという考えが支配的

 になっていったようです。


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   場所は、現在のソウルの西、インチョン国際空港の北側の江華島という

  場所で、日本側と朝日の修好について話し合いがもたれたようです。



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 朝鮮側の基本は、 対馬藩との交易の持続という考えで、対馬藩が、明治

政府に変わっただけという考えであったようです。

 日本側の 黒田 清隆 全権大使が提案したのは、 対馬藩の場合は、朝鮮の

家臣という位置づけであったのですが、 両国は、大日本 と 大朝鮮という、国の

呼び名で、あくまでも対等な立場で、お互いを尊重して付き合うと言う、提案をして

朝鮮側も同意をしたようです。

朝鮮との交易は 釜山 のみで行っていたのですが、 朝鮮側は仁川、元山の

2箇所を開港して、 交易箇所を3箇所にすること、 そして両国の首都に領事を

双方置いて、 現在で言う 大使館を作って、国どうしが修好を行う事、日本人が

朝鮮で犯罪を起こした場合、 日本人の官吏が裁判を行うこと、 この点につい

ては、当時も、以前も、朝鮮で日本人が犯罪を犯すと、対馬藩に引き渡していた

ので朝鮮側は、以前と継続と考えていたようです。



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  この 日朝修好条規という条約が、朝鮮側に不利であった不法なものであった

という根拠となって行ったのは、関税を朝鮮がかけられないという点でありました。

当時、朝鮮人は、西洋諸国の情勢に疎く、 関税という概念が当時なかったのです。

そういうわけで、 関税という意味がよくわかっていなかった、 数年して、その

落ち度に気がついて、 大変な条約を結んでしまったと、後悔していくことになるの

です。



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   それと、もう一つ、 朝鮮半島の周辺には岩礁が多く、商船には危険なので

 日本側が西洋式の測量を行って、海図を作り、両国がそれをもとに、船舶の

 航行の安全をはかり、 両者が共栄するという内容であったのですが、実際は

 日本の船が、それを名目に、朝鮮の海岸のどこでも 領海侵入しても、朝鮮は

 文句が言えない決まりとなって行ったのです。

 しかし、明治9年当時、朝鮮側は 日本が測量して海図を作ってくれて、朝鮮に

 も渡してくれるというので、 当時は歓迎していたと言われています。


  【明日に続く。】