第1878回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1877話 朝鮮半島の食糧価格の高騰の事。2017年7月12日水曜日の投稿です。





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  1876年の明治9年2月27日に、 日本の事を、大日本国と呼び、朝鮮の事を

大朝鮮国 と呼ぶことに、双方が合意し、 朝日修好条規 という条約が調印され、

当時の大朝鮮国では、戦争が回避され、 日本と交易できるという事は、金もうけが

できるという事で、当時疲弊していた 国庫をなんとかしようと、こういう考えから、

当時、朝鮮半島を支配していた 閔妃と、その一族は 大日本国との関係を前向き

に考えていたようです。

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  ところで、この1876年 明治9年の3月8日に廃刀令という法律ができて、

武士が腰に刀を差して歩くことが禁止され、 大きな衝撃が日本国内に走ったの

です。

この年の10月24日には、熊本で 神風連の乱が発生し、熊本鎮台司令官宅、 

熊本県令宅が兵力200名程度に襲撃され、内乱となり、 10月27日には福岡県

の秋月で、兵力400名で反乱が発生し、翌日の28日には、 山口県の萩で、兵力

200名が反乱を起こし、 日本国内では騒動が発生して内乱状態になっていくの

です。

そして年が変わって、 1877年 明治10年2月4日から西南戦争が起きていくの

です。



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  日本人は、西南戦争が起きると、朝鮮半島にコメなどを求めて殺到して

いったのです。

  どういう事かというと、 博多から、大阪や、名古屋、東京に物資を積みに行く

 より、朝鮮半島の釜山に輸送船をつけて 積み込んで、博多に搬入したほうが

 距離が短く、短時間で可能であったことと、 日本国内のコメの価格より、朝鮮の

コメの値段が当時安かったのだそうです。



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 このような価格の差が、朝鮮からコメなどを買って、博多に持ち込むと利益が

出るという事で、 三菱などの財閥が朝鮮に進出し、どんどん買い集め、日本に

コメを送っていった結果、 朝鮮半島ではコメが少なくなり、価格が高騰し、庶民が

手が出なくなっていったのです。


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  このようないきさつで、 庶民の暮らしは 開国によってどんどん生活が

 厳しいものになっていき、 閔妃と、その一族は、庶民の事を考えない一族

 中心の政治を行っていったので、 不平不満が蓄積していったのです。


  【明日に続く。】