第1881回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1880話 堀本禮造【ほりもと らいぞう】工兵少尉の事。

                           2017年7月15日土曜日の投稿です。





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  みなさん、現在の大韓民国の首都は、ソウル といいますが、 私が、日本海

練習艦隊に配属されていた当時は、京城 【けいじょう】と呼びまして、 それ以前

漢城 【かんじょう】と呼んでいたのです。

ここが 明治時代 大朝鮮の王宮があって、 当時、 大朝鮮 国王 高宗とは

名ばかりで、 皇后の 閔妃【びんひ】 と その一族の 閔 致久 や、閔 致禄

らの一族が、身分制の封建主義の独裁政治を行っていたのです。 



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    その郊外に、 慕華館 【ぼかかん】と言う場所があって、ここで日本人が

  朝鮮人を指導して、西洋式の軍隊を組織して、閔氏の 親衛隊のような軍隊を

  造ることに協力していったのです。

  その代わり、日本から中古武器を買う約束をさせられ、 法外な単価で朝鮮人

  は、西南戦争以前の古い前込み式のエンフィールド小銃などを、日本人から

  買わされていたのです。



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  つまり、アメリカの南北戦争の余剰兵器を、戊辰戦争以前から、長崎の

グラバー商会などが、法外な値段で各藩に売りつけ、 西南戦争が終わると、

スクラップ同然の 当時の兵器を、 大朝鮮の閔氏の軍隊に 最新兵器と偽って

売りつけて、 そのかわり 軍事訓練と、兵器の使用方法などを、教練いたします。

と、約束し 実行していったのが 明治15年 1882年の頃のお話しです。



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   当時、大朝鮮の身分で、両班【やんばん】と言う、上流階級の身分があって

この上流階級の人達を、 指導することになって行ったのが、 堀本 禮造【ほりもと

  らいぞう】 工兵少尉でありました。

 堀本 禮造 さんは、山形県の出身で、朝鮮語が話せず、 当時 通訳として

 武田 勘太郎 さんと言う人が 側について、 大声で、号令をかけたりしていた

 そうです。


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    いろんな言い伝えがあって、 その兵力は 500名であったとか、80名で

 あったとか、 色々ですが、数十名程度で 軍事教練を始めたようです。

 慕華館 【ぼかかん】 という、フランスで言う、凱旋門のような場所があって、

 「 いち にー いち にー いち にー。」と、 小銃を担いで、行進の練習から




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  始めていったようです。

  この西洋式の軍隊を当時、 別技軍 と呼んだそうです。

   別の技を持つ軍隊と言う意味で、閔氏の親衛隊のような武衛官 という身分

  の中の部隊であったそうです。



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  1882年 明治15年 7月23日、 大院君 興宣 は、 閔氏は、日本に

国を売り渡そうとしていると叫んで、 まず、西洋式の軍事教練を行っている

 別技隊を 皆殺しにすべきだと叫んで、 外国人撃ち払いを考える軍人達と

クーデターを起こしていくのです。

  1番はじめの攻撃目標は、気の毒な事に、 堀本 禮造 工兵少尉と、通訳官

 武田 勘太郎さんが選ばれ、 襲撃されていくのでした。


  【 明日に続く。】