第1867回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2017年7月31日月曜日の投稿です。
【大朝鮮の官吏 閔氏系列であった 金 允植 きむ いんしょく 】
閔氏【びんし】の系列の官吏であった 金 允植は、天津を経由して、北京に
至り、清国に援軍を頼み、 大院君 興宣を攻め滅ぼすよう懇願したのです。
実は、これが 大朝鮮の崩壊の始まりであったのです。
清国という 虎を 自分の国に招き入れ、乗っ取られる原因になっていた
のです。
大朝鮮の首都 漢城 【現在のソウル】には、大院君派の軍勢が布陣し、
仁礼 景範 海軍少将の 日本海軍の艦艇は、 仁川沖合に布陣し、
日本陸軍の 高島 鞆之助 陸軍少将の率いる 仁川制圧部隊は、仁川に
上陸したあと、 防御陣地を築いて布陣したのです。
金 允植 の要請を受けて、清国は 大朝鮮に軍事介入を行い、清国 北洋
艦隊が日本側の北側に布陣し、 日本海軍とにらみ合いとなったのです。
そして 次々と、清国 の呉 長慶 大将軍の軍勢が布陣し、その兵力は
3千騎であったと言われています。
日本陸軍 高島 鞆之助 陸軍少将の率いる 仁川制圧部隊は、1個大隊
1000名ほどの兵力で、3倍以上の 清国の 呉 長慶 大将軍の部隊と、右に
大院君派の軍勢とを相手に、 にらみ合いを続けていったのです。
時に、1882年 明治15年8月3日 暑い夏の時期、 時の流れはどんどん
早く、 外務省、 花房 義質【よしもと】全権公使らは、 どうするのか、決断を
迫られていったのです。
会い対する清国側も、日本側の動きを見守ったのです。
両者 相手が撃ってきた場合、すぐ応戦できるように、戦闘の準備に追われ
ていったのです。
【明日に続く。】