第1900回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
1882年 明治15年3月1日から、 大隈 重信公、 伊藤 博文公、 井上
馨 外務卿 などと、 福沢 諭吉先生なと゜が話をして、日本でも本格的な新聞
を作って社会に出来事を伝えるべきだという考えを基本に、政府系の新聞社を
作って準備を行っていたのですが、 先のお話しで紹介した 明治14年の政変
で、 大隈 重信公が明治政府を追い出され、伊藤博文公や、井上 馨 外務卿
なども、この新聞社の構想から、遠ざかっていったのです。
ところが、 印刷機械などが既に準備されていたので、見切り発車という形で
慶應義塾で新聞が 明治15年3月1日から開始されていったのです。
この慶應義塾の新しい新聞の事を、 時事新報 【 じじしんぽう】と呼び
日本で初めて、マンガを掲載したり、 料理のレシピを掲載したりと、新しい
アイディアに満ちた誌面であったのです。
日本には、瓦版【かわらばん】 という、小規模の 木版手すりの新聞の
ような品があったのですが、時事新報というのは、現在の新聞に準ずる
慶應義塾の新聞でありました。
民主主義の政治への導入を記事にして、 世間に訴えて行ったのです。
その新聞を見た、当時来日中であった、大朝鮮 特命全権大使 朴 泳孝
氏らは、 福沢 諭吉先生に頼み込んで、ぜひ 大朝鮮国でも、同様の事を
行いたいと願い出たと伝えられています。
これを聞いた 福沢諭吉先生は、 「 人は すべて平等で、身分など撤廃し、
憲法を制定し、 議会制民主主義を広く、時事新報によって紹介し、多くの人に
考えを広めることは良いことだ。」と語り、 慶應義塾として、支援していくことを
約束し、 大朝鮮国に慶應義塾の人材を派遣する事を約束したと言われてい
ます。
興亜 【 こうあ】の考えと言って、 大日本国、大朝鮮国が両者手を取って
身分を撤廃し、国民みな平等、 憲法制定、 議会制民主主義を行わなければ
いったと伝えられています。
事になっていったのです。
その中心人物は、 留学生であった 朴 泳孝 特命全権大使、 金 晩植 副使
徐 光範 従事官、 金 玉均 書記官らが中心となり、 これらの人に、慶應義塾
から派遣された日本人が加わり、 大朝鮮国 独立党の元祖となって行ったのです。
利用して 朝鮮半島を征服しようとしていた。」と批判する人が多いのですが、まった
くそのような野心などはなく、 ただ、 求めに応じて、 出来る事は報酬を求めず
社会の公益の為に協力していくという考えであったと言われています。
【 明日に続く。】