第1902回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語 】

第1901話 非道 清国人の朝鮮半島での年貢の徴収方法の事。 

                         2017年8月28日月曜日の投稿です。




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 1882年 明治15年9月後半、 慶応義塾の留学生であった 朴 全権大使が

 明治政府とのコネクションが無かったので、福沢諭吉先生にすがり、先生も

 慶応義塾門下を動員して、 大朝鮮国の国益のために尽力していた当時、朝鮮

 半島では清国人の残虐行為が繰り返されていったのです。



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  呉 長慶 大将軍らは、閔妃と閔氏をかやの外に置いて、清国人で朝鮮の

 政治の実権を握り、 大院君派の官吏や、学者、協力者を次々逮捕した後、

 拷問によって、罪を作り上げ、こんどは、その人の子供を含む家族、 そして

 親戚まで捕まえて同様の拷問を繰り返し、 死刑にする人をたくさん作っていった

 のです。

 つまり、謀叛を企み不届き至極、 反乱罪で死刑を宣告していったのです。



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    罪もない人を 親戚と言うだけで 捕らえて、拷問して、無理矢理罪人にして

  死刑になる人を量産していき、何を行おうとしていたかというと、 こういうことで

  あったのです。



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          【 強引な年貢の徴収を推進して行った 馬 建忠 】






  大朝鮮の国庫が空なら、年貢をしこたま搾り取って、何とかしようという考えは

馬 建忠によって立案され、 清国式の 脅迫と見せしめの処刑をすることで、人々

から確実に例外なく年貢を集めようと計画していったのです。



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 それには、みんなの前で殺す人が大量に必要であったのです。

まず、初め捕らえた 大院君派の官吏の本人を凌遅の刑【りょうちのけい】という

少しずつ肉を切り取って、 苦しめながら殺していく処刑方法で公開処刑し、

その人が、肉を切り取られ、「 ぎゃーーあーーーー。」と 悲鳴を上げ、それが

周囲に聞こえていくと、それを見ていた住民が震え上がると、 周辺の村々に移動

して、 その人の両親や、妻、 幼い子供まで、見せしめの 打ち首にして、公開

処刑を行っていったのです。


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  それは それは残酷な方法で、殺害されていき、 謀反人の一族は

根絶やしにされるとともに、 清国人の言う通り、年貢を納めないと、こうなる

と言う事を 朝鮮半島各地で公開処刑によって宣伝し、行って行ったのです。 




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 当時、ちょうど農作物の収穫の時期で、 法外な年貢が設定され、人々に

強要されていったのです。


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  今度は、愚かな事に、 朝鮮人であるのに清国人と一緒になって、こういう

行為に加担する 閔氏系列の朝鮮人が多数出てきて、 人々を苦しめていったの

です。

こういう人達の事を 当時 事大党 【じだいとう】と呼んでいたそうです。



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 逃げたり、隠したり、年貢を納めない場合は、こうなるのだと、人々を広場に

強制的に集めて、 公開処刑を行って、 見せしめとし、 人々は、明日は我が身

と悟り、 震えて清国人に穀物を差し出していく地域と、 それが出来ない地域

とに別れていったのです。


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  年貢を納められない地域、 例えば干ばつなどで、収穫が低い場所などに

清国の袁世凱 将軍の軍勢を派遣して、抵抗する農民や、年貢を治められない

農民を軍隊で皆殺しにしたり、 捕らえて、見せしめに処刑したりを繰り返して行った

のです。 

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 これらの行為は、農村が一段落すると、町中の 商売人や漁民にも、朝鮮半島

全土に渡って同様の年貢の徴収が行われ、多くの人が殺害されていったのです。




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  こういう 人々の残忍な方法による清国式の年貢の徴収に、朝鮮半島

人達は恐怖し、 抵抗を行って行った人もいたのですが、 清国の軍勢と、事大党の

軍勢に皆殺しにされていったのです。


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    みなさん、 朝鮮人や中国人は、日本人のことをボロカスに言うという

 原因は、彼等の学校の教科書が、日本人を悪人に仕立てた内容となっている

 のです。

 それ故、 知らない人、 歴史を勉強していない人が、それを読んで、「日本人は

 ひどい事をする。」と、考えるようになり、 日本のお寺に油を撒いたり、いろんな

 ひどい行為を日本人に対して行うようになって行くのです。


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  僕の研究では、日本人の統治時代が平和であったとしか言いようが無く、また

死者の数、 家が焼かれていった戸数などにしても、 比較にならない程度平穏

であったのです。

 これ以前、 昭和20年以後の 死者の数字は途方もない 大きな数字になって

います。

  これから、毎日少しずつ、どう言う事があったのか、 中国人がどんなことを

行って行ったのか、勉強したいと思っています。


  【 明日に続く。】