第1905回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1904話  慶應義塾 いよいよ大朝鮮国 漢城に挺進スの事。

                       2017年8月31日木曜日の投稿です。




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    今の時代でもそうですが、 家や、今の職業を捨てて、言葉も違う異国の地

 に、社中協力と称して、報酬を求めず、 大朝鮮国の身分制度の封建独裁政治

 を慶應義塾で変えていこう、 少しずつ、ニュースペーパーで大朝鮮国の人達に

 議会制民主主義とは、どのようなものなのか 説明して 興亜の為に広めていこう

 という 心がけというか、行動を起こすというのは大変な勇気と覚悟が必要です。


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   【 慶應義塾  井上 角五郎先生  広島県福山市 誠之館 出身 】



   1882年 明治15年12月、 日本を出て大朝鮮国の首都 漢城【ソウル】に

 乗り込んでいったのは、 前話で紹介した、 土佐藩 後藤象二郎 公の書生を

 していた、 慶應義塾 井上 角五郎先生 そして、 牛塚 卓蔵先生、 高橋 

 正信先生、 印刷職人 三輪 広蔵さん、 印刷職人 真田 謙蔵さんらでした。



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                  【 当時の 大朝鮮国の首都 漢城 】


     その活動の第一歩は、 大朝鮮国の首都 漢城 に印刷所を造り、

   そして、 時事新報のような、印刷物を現地の言葉、文字に翻訳し、西洋の

   動勢や事情なども紹介しながら、 どんどん印刷して、 自由民権運動の先駆

   けとして、第一歩を踏み出すことにあったのです。



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     まず、拠点となる印刷所を造る場所、 つまり 土地ですが、慶應義塾

   留学生、 朴 泳孝 さんらが国王の許可を求め、 承認を得よう動いていった

   のですが、 壬午事変からわずか5ヶ月の間に、 王宮から 朝鮮人は少数派

   となり、門番から、 王宮の中の官吏まで 要所要所は 清国人に占拠され

   まったく 違った清国人の王宮に成りはてていたのです。



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   朴 泳孝 さんらが、大日本国に行っている間に、 漢城の周辺と王宮が、

 清国の 呉 長慶 大将軍や、馬 建忠や、袁世凱などに占拠され、 植民地の

 ようになっていたのです。

  何をするにも、 清国人の許可が必要になっていたのです。



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   朝鮮半島の人は、日本人の顔を見ると、いつも 因縁を付けて、自らを正当化

して、「 人が悪い。」 と、 批判を繰り返すのですが、 多くの朝鮮の歴史研究家が

福沢諭吉と、慶応大学が 朝鮮人を洗脳して、 朝鮮半島を乗っ取ろうとしていたと

批判ばかりしますが、 当時を振り返ると、 すでに、清国人に国を乗っ取られ、

 多くの人が殺され、 牢へ入れられ、 牢は、処刑の控え部屋になっていた様です。

 慶應義塾の 義塾とは、 人々の為に学問を生かし、報酬など求めず、社会貢献

するという意味があったことを、 頭の隅において 政府の作った偏った歴史教科書

ばかり読まずに、視野を広げて歴史の勉強をしてもらいたいですし、年号や出来事、

人物の名前の暗記に終始せずに、 歴史の出来事を自ら考察して自分の人生の

将来に生かして行くことが大切で、福沢諭吉先生 や、 井上 角五郎先生 に替

わって、当時の慶應義塾の人達の思いを1人でも多くの人に知っていただけたらと

思います。


   【明日に続く。】