第1914回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1913話 慶應義塾の初志貫徹【しょしんかんてつ】の事。
2017年9月9日土曜日の投稿です。
みなさん、初志貫徹【しょしんかんてつ】と言う言葉は、 初め志を立てたら、
それに徹して貫いて行動して行くと言う言葉です。
慶応義塾 門下 井上 角五郎先生は、まさに、その言葉通り、武器も持たず、
発行する事にこだわって、1人 奮闘していったのです。
訪日使節団の副使であった 金 晩植【 キム マンシュク】さんに、通訳をお願いし、
大朝鮮国の首都の漢城の王宮に羽織袴姿で入っていった 井上 角五郎先生は、
ことに 心を痛めたそうです。
1883年 明治16年の7月当時、 清国の軍勢に占領された 大朝鮮国の首都
漢城は、軍事、行政、司法などの主要な国家権力は、清国人によって 武力で
押さえられ、 朝鮮人はその下で、清国人の言いなりになるしかなかったのです。
表向き文句を言う人がいなくなり、 清国人の天下となって行ったのです。
【 金 宏集 後の大朝鮮国総理大臣 】
そのような中、 金 宏集 氏と面会することになり、冒頭、 通訳の金 晩植氏
福沢 諭吉先生の名代、 井上 角五郎先生でございます。
先生には、 我が 大朝鮮国にて、 ニュースペーパーなる物を始めるべしと、お考え
あり、 本日、言上にまかり出ました。
不肖、 金 晩植 大日本国 留学の折、 慶應義塾にて、最新の学問を学び、
ーーーーーーーー云々。」と 自己紹介がなされ、 話は、 興亜の為に漢城で新聞
を発行する許可を 再度、 許可願いたいというお話になっていったそうです。
話を聞いていた、金 宏集氏は、「 それは、清国人の考え次第であろう、
清国人が許可すれば、出来るであろうし、 許可が出なければ出来ぬであろう、
2月に 博文局の認可がおり、 4月に閉鎖になったのは、 博文局でよからぬ
政権転覆を画策する文章を大量に作って、ばらまくという訴えがあり、これを
閉鎖するという決定が清国人より出されており、 国王といえども、これを覆す
事は難しいであろう。」 と、 回答があり、 続けて、「 もし、 これを再開させる
となると、 清国人が再度許可を出すような、内容、 つまり、疑いを受けないよ
うな仕組みを考え、清国人に提示する必要があるであろう。」と、 こんな内容の
話があったそうです。
井上角五郎先生は、「では、この国は、朝鮮民族から、清国人が軍事、行政、
司法を奪い、 彼等の許可がないと何も出来ないのであれば、どうしたらよろしい
か。」と、 尋ねたそうです。
金 宏集氏は、「 そうーーーと、しばらく考えた後に、 清国人は、博文局を
謀叛の準備をしていると疑い、 閉鎖したわけで、 彼等が疑いを持たないような
人物を責任者にして、彼等の言う通りの、苦情の出ない紙をすって、 そして、それ
を読んだ清国人が喜ぶような品を作れば可能でありましょう。」 と語ったそうです。
「 いったい、どなたを中心とし、 どのような体制で、 どうしたらよいで
ありましょうか、 ぜひ、博文局を再開させていただきたい。」と、問うと、
すっと、立って、窓から外を見ながら、「清国人が、まったく、疑わず、心を
許している 朝鮮人の人物ーーーー。」 と、 考え混んでいったのです。
このようなやり取りがあって、 当時、軍事、行政、司法を独占していた
清国人が 疑いを持たず、信用する人物を 新聞を発行する 博文局の代表者
に据えて、 なんとか新聞を発行しようとする動きが始まって行ったのです。
当時の朝鮮の高官は、 日本人から 興亜論【 こうあろん、 アジア人が協力
してお互い手を取り合って助け合う事。】を直接聞き、 今後、日本人は利用
できると見ていたようです。
つまり、傍若無人にふるまう 占領軍 清国の軍勢をいずれは追い払わなけ
ればならず、 興亜を叫ぶ日本人と手を組んで、清国人を追い払うのに利用
し、 朝鮮人が軍事、司法、行政権を奪い返さなければならないと考えて
いたようです。
【明日に続く。】