第1916回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1915話 博文局 主任 外衛門顧問 井上 角五郎先生 の事。
2017年9月11日月曜日の投稿です。
唱え、 これを授業で聞いていた、 となりの 大朝鮮よりの留学生の朴 泳孝
さんらの要望で、 この自由民権運動を行う思想を、隣の大朝鮮国で広める
手段として、ニュースペーパーを印刷する許可と、印刷する場所を確保して、
それを行う予定であったのですが、謀叛の疑いをかけられ、清国人の政府関係者
に話を潰され、 現地に 門下の井上 角五郎先生が1人残って、何とか出来ない
かと、現地の暑い夏の中、汗を流していた当時、 いろんな人の協力でなんとか
許可が下りたのですが、 初めの目的とは随分かけ離れた内容となって行った
のです。
【 清国に軍事介入を要請した 事大党の金 允植 】
新聞を発行する印刷所の 博文局の総裁には、 清国人が信任していた
清国に軍事介入を要請した 金 允植 が任命され、 大朝鮮の両班【やんばん】
と清国人が読む新聞が作られる事になっていったのです。
この決定には、 朝鮮人の手に政治を取り戻そうとしていた、朝鮮独立党の
メンバーに、多いに反発を買うことになっていったのです。
そして、その新聞は、清国人の読む事が出来る 漢文のみの記事であった
のです。
わかりやすく言うと、日本で例えると、 朝廷の身分の高い公家や、御三家や、
大名みたいな身分の高い人しか使うことが出来ないと定められていた、漢字の
文字の新聞紙しか許可が出なかったのです。
これでは、新聞を作っても、一般人は読めないわけで、庶民に自由民権
を広めようとする 福沢諭吉先生の教えに添う新聞ではなかったのです。
を持ち込み、 活版印刷で新聞を出し、 長い年月で 少しずつ初めの目的に
近づけていく、こう言う事が大切であると考え、周囲を諭したそうです。
また、「総裁の 金 允植 に、 「 売国奴。」と、 怨みを持つ人も多いのが事実
であるが、興亜の為に辛抱するべし。大義の為には小義を捨てるべし。」と
語っていたそうです。
当時、 再度朝鮮王宮に呼び出された 井上 角五郎先生は、国王の
高宗の名前で、 博文局主任 外衛門顧問 という役職に任命され、正式に
朝鮮王朝の官吏となったのです。
博文局主任 と言うのは、新聞を発行する博文局の実務を行う主任の事で、
そして、 外衛門顧問 というのは、 日本で言えば、外務省顧問 という
ような肩書きでした。
【 清国 朝鮮派遣軍 袁世凱将軍 】
清国人達は、「 興亜論、新聞発行。」 などと唱える日本人、井上 角五郎
を 名前だけ外衛門顧問にして、 大日本国との交渉に利用しようと考えて
いたようです。
英語、漢文に達者で、 なかなか広い知識を持っており、日本政府の高官
ともパイプがある 井上 角五郎を 漢城で 使うことで、清国にとっては、
そのうち役に立つと考えていた様です。
【 大朝鮮国 首都 漢城 現在のソウル 】
江戸時代に、対馬の宗氏が朝鮮の官位を受け、 家臣となっていたお話は
以前紹介しましたが、 明治以後、近代になってからは、井上 角五郎先生
が初めてでありました。
いよいよ、新聞を発行する準備に邁進して行く事になっていったのです。
【明日に続く。】