第1917回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1916話 統理衛門 博文局  金 允植 総裁の事。

                         2017年9月12日火曜日の投稿です。





   1883年 明治16年の夏、井上 角五郎先生らの尽力で、博文局が

 再開されることとなり、 井上先生は 主任に任じられ、新聞の発行の実務を

 取り仕切る役職に就いたのですが、 問題は その上の総裁でありました。

 清国に 軍事介入を要請し、 国を清国に売り渡したとされ、事大党の中心

 人物で 金 允植 と言う人であったのです。

 「早速、総裁に挨拶に行くべし。」 と言う事になったそうで、 顔を知っている

 独立党の 金 晩穂 という人が 紹介者 兼 通訳として、一緒に 金 総裁

 の屋敷に出向くことになって行ったそうです。



イメージ 1


         
              【 大朝鮮国 事大党 金 允植 博文局総裁】


    みなさん、「毒をもって 毒を制す。」と言う言葉がありますが、 閔氏に

  仕えていた、 金 允植氏は、 忠義の心から、 閔氏の政権が倒れ、反乱を

  鎮圧し、 再び 閔氏の政権を再興するには、 清国の つまり 毒を利用して

  反乱軍の大院君 興宣の勢力を制すしか無いと考えていた様です。

  そんな考えで、毒を制した後、 清国と言う毒が 大朝鮮国に充満していく、

  そういう時期であったのです。

  しかしながら、 閔妃と 閔氏の一族が 「それも仕方なし。」という態度で

  あったので、 彼の力ではどうすることも出来なかったようです。


イメージ 2




                      【  当時の活版印刷機 】


     ところで、金 晩植氏と一緒に 訪ねて来た 井上 角五郎先生との会話で、

   広く出来事を世間に知らせ、 そして、 興亜の考えに基づいて、大日本国と

   大朝鮮国が手を取り合って、 お互いが助け合い、 西洋の植民地にされない

   ように、双方努力しないといけないと言う、 福沢諭吉先生のお話を聞くに及び

   金 允植 総裁も、 初めは懐疑的であったのですが、井上 角五郎先生の

   興亜の考え、 そして、開かれた、民主的な 博文局の運営、 そして人柄に

   接して、 徐々に 日本人に好意的になって行ったそうです。

   井上 角五郎先生は、 手紙をしたため、 慶應義塾福沢諭吉先生に

   送り、 印刷機、活版の文字版などを送ってほしいと連絡したのです。



イメージ 3



                 【 当時の慶應義塾 後の 慶応大学 】


      井上 角五郎先生 が 1人朝鮮半島に残り、 新聞を発行する許可を

     取って、 印刷所が出来るらしいとの報告は、 学問を社会に生かして、

     社会に貢献し、 国民の為に尽力していくという事を教えていた当時の

     慶應義塾を 多いに沸かせる事になっていったそうです。



     【 明日に続く。】