第1919回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1918話 漢城旬報 【かんじょうじゅんぽう】創刊の事。
2017年9月14日木曜日の投稿です。
1883年 明治16年 10月30日 朝鮮半島での初めてのニュースペーパー
こと、漢城旬報【かんじょうじゅんぽう】と言う名前の新聞は、小規模ながら、清国
人や朝鮮人の特権階級の人だけが読む漢文の表記で発行されたのです。
実に、歴史的な出来事で、 報道の第一歩であったのです。
漢字は朝鮮半島では、特権階級が使用する高貴な文字として考えられ、庶民は
文字の読めない人が多く、 日本のかなに該当する ハングル文字が中流階級で
使用されていたのです。
つまり、漢字で書いてあると、 何が書いてあるのか、中流以下の身分の人は
読む事が難しかったのです。
印刷の指導、 内容など、 慶應義塾門下 井上 角五郎先生 や、印刷技師の
三輪 広蔵さん、 真田 謙蔵さんらの指導で作られていったのですが、決して
日本人だけが大朝鮮国で作った新聞ではありませんでした。
罪の無い人が 清国人に捕まり、 罪を作られて、見せしめで広場で公開
処刑され、 女子供、 老人まで処刑されていた当時、 自ら命を捨てて、通訳
として、協力していた 独立党の人達や、 多くの朝鮮人の人達が利益を求めず
社中協力、興亜の精神で団結して、生命の危険を冒して、物事にあたって
いったたまものであったのです。
どうしてこう言う事が出来たかというと、「みんな、人は男女みな平等、民主憲法
の制定、 議会制民主主義を唱え、 興亜のために協力し、日本人も朝鮮人も
国や言葉の壁を越えて、 お互いを大切にして民主的に教えを広め、 その
第一歩として、 慶應義塾の時事新報の朝鮮版を作らなければならない。」という
福沢諭吉先生のお話に心を打たれ、「清国人や、朝鮮国王の身分制封建政治を
終わらせなければならない。」と、 考えるようになっていたからです。
しかしながら、これらを表に出すと、博文局を清国人に潰されてしまうので、表に
出さず、とりあえずは、金 総裁の言う、 清国人や、朝鮮王族が喜び、 そして
新聞という品を1日も早く、これらの人に違和感が無く、 毎日読む様な風習を
作っていかなければならないとの考えから、 自由民権という文字は伏せられ、
井上 角五郎先生が 「 どうしたら、清国人や、朝鮮王族が 漢城旬報を読んで
喜ぶのか。」知恵を絞ることになって行ったのです。
そこで先生が思いついたのが、清国人は母国を離れ、朝鮮半島に来ていて、母国
清国の出来事の記事や、 母校 備後福山藩の藩校 誠之館で暗記した中国古典
などを記事にしていったと伝えられています。
幼少の頃から、藩校 誠之館で漢学を習っていた 井上 角五郎先生の知識
は当時多いに役立ち、清国人を楽しませ、 少しずつ、 清国の情勢や、海外の
情勢を漢字で紹介していくことになっていき、なかなかの評判であったそうです。
【 明日に続く。】