第1920回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1919話 外務協弁 メレンドルフの事。 2017年9月15日金曜日の投稿です。





 数話前に、清朝商民水陸貿易章程 と言うのが1882年 明治15年10月

4日に天津で締結というか、 清国の皇帝から、朝鮮国王の高宗に差し与える

条約として、大朝鮮国に強要され、 受け取らされ、 大朝鮮国の軍事、外交、

行政、司法が、清国人が行い支配し、 毎年、大朝鮮国は、清国に貢ぎ物と

称して、 多額の年貢を払うことを約束させられ、 事実上の清国の統制下

に成りはてていったのです。



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                    【 大朝鮮国の首都 漢城 】






     今までは、 朝鮮の王宮の衛兵は、朝鮮人でしたが、 清国の兵士が

    衛兵となり、 政治は 清国の意のままとなっていったのです。

    呉 長慶 大将軍らは、清国に帰国凱旋し、 朝鮮半島には別の清国人が

    やってきて、 厳しい年貢の取り立てを行って行ったのです。




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                    【  清国 行政官  馬 建常  】


  馬 建常 と言う人は、 大院君 興宣を 鶏籠の計を用い、天津へ連れ去った

馬 建忠の 兄にあたり、 清国 大阪総領事などを務め、 日本通の人でもあり

ました。

  行政は、 馬 建常が、 1883年 明治16年から主に担当していたと言われて

います。



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               【 袁世凱 【 えんせいがい】将軍】


     軍事行政や、総合的な事は、 袁世凱将軍が取り仕切り、 事実上 朝鮮

   は、袁世凱将軍が採決し、 朝鮮人は その下請けとされ、 彼の権限は絶大

   となっていったのです。





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          【 パウル ゲオルグ フォン メレンドルフ  ドイツ出身 】



   メレンドルフと言う人は、 ドイツ人で、ドイツ公使館の副公使でありました。

 彼は、ドイツの クルップ社、 フルカン社などの武器弾薬を清国の政府に営業し、

 法外な値段で売りつけていた、 外交官で、 大変明晰な頭脳で、言語に達者な

 人物でありました。 



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 ところが 上役の 北京ドイツ公使 マックス フォン ブラント と、意見対立し、

首になったそうで、 その話を聞いたのが、 清国の北洋大臣 李鴻章 【りこうしょう】

でした。

  彼は、メレンドルフ が、ドイツ語、ヘブライ語、英語、清国語に堪能な事から、

使える人材として雇い入れたのです。



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                  【 北洋大臣 李鴻章 りこうしょう 】


李鴻章 と言う人は、 日清戦争終戦工作で、下関の春帆楼で 伊藤 博文

内閣総理大臣と 陸奥 宗光 外務大臣を ペテンにかけて、 三国干渉という

外交戦略で、 大日本帝国に一撃を加えた人でもあります。

  彼は、 メレンドルフ 駐北京ドイツ公使館 元副公使を朝鮮半島に派遣し、

 袁世凱将軍の下で、 外務協弁 という地位に任命したのです。




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   外務協弁 と言う地位は、日本で言えば、外務大臣又は、外務省事務次官

 相当する重役でありました。

 1882年の12月に 朝鮮半島漢城に到着すると、朝鮮語の勉強に傾注し、

 慶應義塾の井上 角五郎先生達が、 博文局で 漢城旬報 を発行した10月

 には、なんと、日常会話が朝鮮語で出来たと言うから、驚きの才能でありました。



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   外務協弁 パウル ゲオルク フォン メレンドルフ と言う人は、 名前を簡単

に インドククー などと名乗り、 直接 朝鮮人と話し合いをして、大きな影響力を

朝鮮王宮で発揮し、 大日本国の外務省や、 福沢諭吉先生、 井上 角五郎先生

朝鮮独立党のメンバー、 板垣退助、 後藤象二郎、 岩崎弥太郎という人達を、

追い込んでいくことになるのです。


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   メレンドルフ 外務協弁は考えたわけです。

  清国人が 命令して、朝鮮の国民から年貢と称して、穀物やお金を吸い上げる、

  これを 貢ぎ物と称して、清国が持ち去る、 これではいつまで経っても、朝鮮国

  の王宮にお金は貯まりません、 それどころか、無くなって、文無しに近い状態で

  あったのです。


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 彼が目をつけたのは、日本人からお金を取って、朝鮮の財政を建て直そうと

していったのです。

  こうして、 大日本国 外務省と、 三菱などの商社と、 メレンドルフの対決が

 始まって行ったのです。

 この騒動、やっと創刊した 井上 角五郎先生の 漢城旬報【かんじょうじゅんぽう】

 に大きな横風となって行ったのです。



    【明日に続く。】