第1923回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1922話 漢城旬報と悪銭當五貨幣事件の事。
2017年9月18日月曜日の投稿です。
大朝鮮国の官吏や、軍人に未払いになっていた 俸禄、つまり給金をどうしたら
良いかという、そういう難問に対して、当時の俸禄というのは、米で現物支給し、その
米を売って品物に替えて生活するという朝鮮の経済であったのですが、 王宮の
米倉には、米が無く、金も、銀も無く、 そこで考え出されたのが、新しい価値のある
貨幣を鋳造し、 それを官吏、軍人に渡して、 未払い俸禄を 残高 0 にしようと
言う計画であったのですが、 この新しいお金を価値のあるお金ということを、世間
に広く認知させ、スムーズに流通させるにはどうしたらよいか考えられたのです。
【統理衛門 博文局 金 允植 総裁 】
そこで、印刷を開始したばかりの 博文局を利用して、新しい貨幣の広報を
行おうという構想が出来て、 金 允植 総裁に伝達され、 そして金 総裁から
博文局の主任 井上 角五郎先生に、 漢城旬報を大量に印刷する勅命が下った
そうです。
漢城と仁川、釜山、元山などでも 新式貨幣の高札での通達と併用して配られ
ていき、 地方でも 漢城旬報 【かんじょう じゅんぽう】という 新聞は知られて
行く事になっていったそうです。
が作られていったのですが、 作りなれない業者が行ったのか、 納期が短く
設定され、 急がされたのか、 形が、変型した、つまり、鋳物なので、ヤスリ掛
けして、整形して 形を整えて出荷しないといけないものを 行わずに納品したり
質が非常に悪い品が多く混入していたそうです。
これらの貨幣は、王宮に搬入され、 期日通り、本来は米で支給される
俸禄の代用品として、 貨幣で 官吏、 軍人に 配給されていったのです。
ところが、形が変型した貨幣などが多く混じっていて、 人々が その形から
品物を変えようとしなかったり、 「そんな銭では、これだけです。」と、両替を
少なくしたり、苦情が吹きだしたそうです。
わかりやすく説明すると、米100石受け取る権利の禄高がその官吏にあったと
しますと、 當五銭という新しい貨幣で受け取って、 漢城の市場で両替したり
日用品に変えようとした場合、 当初は、半分程度の価値しか認められず、その
後どんどん、悪質な品質貨幣との噂で、貨幣価値が下がっていったのです。
これを 「 悪銭當五銭事件。」 【あくせんとうごせんじけん】と呼びます。
みなさんでも、 受け取ったお金が、欠けていたり、 鋳造の膨らみがそのまま
残っていたり、 そんなお金を差し出されたら、 いくら持ち主が10の価値が
あると、国王が認めた物だと主張しても、5、 または、3の価値程度にしか商売人
は評価しなかったのです。
そうすると、 大きな損を 官吏や軍人が 被ることになって行ったのです。
【 新貨幣鋳造を唱えた、 メレンドルフ 外務協弁 】
今現在の物差しで考えると、 ちゃんとした 貨幣を生産して、準備を整えて
それから 国内に流通させるべきであったと思いもし、 思い切って、紙幣の
方が良かったかも知れません。
後から言うのは、簡単ですが、 発想はよかったのですが、乱造貨幣によって
朝鮮半島の経済は混乱して、 支給を受けた 官吏や、軍人から苦情が殺到し、
不満が高まっていったのです。
清国人の容赦ない年貢徴収の方針で、 農村から 情け容赦ない年貢の
取り立てが行われていき、 そして、 年貢を納められる人はよいのですが、
予定の年貢を徴収できない、朝鮮人の役人も、責任を問われて、清国人に
広場で 見せしめのため公開処刑され、 その役人の担当であった 土地の
農民も 年貢を納められない者は、 見せしめに 処刑されていったのです。
このような事になっていったのは誰の責任か、 それは誰もが、清国に
軍事介入を要請した 閔妃と、閔氏の一族を怨んでいったのです。
そして、 今度は、悪銭を 官吏や軍人に手渡して、 未払いの俸禄の支払いは
終わったと開き直り、 受け取った多くの人が、大損をしていったのです。
朴 泳孝氏ら、 日本の慶応義塾に留学していたメンバーを中心とした
朝鮮独立党の人や、 早く国家を近代化して、西洋に対抗していこうという考えを
持っていた 朝鮮開化派の人達は、「世直しを行うべし。」と考えるようになって
いったのです。
を、武力によって朝鮮半島で行わないと、100年経っても、200年経っても、
開催は出来ないであろうと思う様になっていったようです。
福沢諭吉先生の、話し合いによって、平和的に民主政治を開始するという
考えは、 彼等は いつまで経っても出来ないと悟り、 反乱を計画するように
なって行ったそうです。
【 明日に続く。】