第1928回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1927話 甲申事変 土佐自由党総裁とフランス極東艦隊の密約の事。
2017年9月23日土曜日の投稿です。
甲申事変【こうしんじへん】とは、明治17年の年末に発生する、当時の大朝鮮国
の首都 漢城での争乱の事件の名称です。
その事件の初動の始まりの事件とは、1883年 明治16年 当時 たまたま長崎
に停泊していた、フランス極東艦隊の艦船を利用して、大朝鮮国の仁川沖合を
朝鮮官吏などを武力討伐し、 その軍資金をフランス国から 借款で300万円を
借り入れようという、後藤象二郎 元参議の方針は、そのまま、ポン友の 土佐
に進められていったのです。
この時、 交渉の窓口は、 三菱の岩崎 弥太郎と その幹部で、その背後に
後藤 象二郎 元 参議がいて、 フランス 極東艦隊 司令官 アメデ クールペ
と交渉に及び、ほぼ合意に達し、 本国からの裁可を待つのみになっていた様
です。
フランス艦隊は、東アジアに展開している13隻の艦艇を集結させ、7月の後半
から8月の初旬には、仁川沖合に展開可能との回答を得て、 土佐自由党では
朝鮮に乗り込む 旧土佐藩の士族などを 隠密に選抜することになって行った
のです。
みなさん、こうして歴史をたどっていくと、 朝鮮独立党の 慶應義塾 留学生
朴 泳孝 氏 や、金 玉均 氏らは、朝鮮半島が清国の植民地のようになってし
まったので、清国を追い払い、 元の 朝鮮人による独立を取り戻そうとして、興亜
を論ずる、日本人に助力を求めに来た。
ところが、土佐自由党とは 名前ばかりで、実際の実態は、 人殺しの集団で、
物資の運搬、その後の利権獲得の布石の為に、これらの計画に加担していった
ようです。
先生の考えは、 自分達が権力を得るための表看板のスローガンとして利用し、
何事も、 平和的に話し合いと、説法、 新聞での広報によって、民主主義を
広めていこうという慶應義塾の物事の考えから逸脱し、 人殺しを行って、
動いていったのです。
当時、フランス極東艦隊へは、 朝鮮半島を折半にするとか、どんな手形を
提示していたのかは不明ですが、 いずれにしても、 金 玉均 氏は土佐自由党
に利用され、 用事がすんだら殺害される運命にあった様です。
【 明日に続く。】