第1932回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1931話 清仏戦争 ソンタイ川の戦いの事。 

                        2017年9月27日水曜日の投稿です。





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   1883年 明治16年の11月頃、北京で行われていた、清国とフランスの

 和平交渉は、フランスが、インドシナを植民地にすると申立、清国に軍勢の撤退を

求めたのに対して、ベトナムこと、インドシナは清国の属国であるという主張を清国

が一歩も譲らず、 交渉は決裂し、 清国は新たな軍勢を追加で派遣したのです。

 その将軍というのは、 以前 台湾での戦争のお話しで紹介した、初代 台湾

 民主國の総統となる 唐 景松将軍でありました。  

 こうして、現地に駐屯している 黒旗軍 の 劉 永福 大将軍と、清国の正規軍

 唐 景松 大将軍の軍勢と、 阮朝【げんちょう ベトナム王朝】の軍勢の連合軍が

 出来上がっていったのです。

 その兵力は2万人程度とも3万人程度でもあったと言われています。

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                    【 清軍 唐 景松 大将軍 】


  それに対して、フランス軍は兵力1万を持って、 現在の北ベトナムに侵攻を

 開始したのです。

  1883年 明治16年12月13日 両軍は ソンタイ川を挟んで対峙したと言われ

 ています。


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  翌日の12月14日 フランス軍は強力な射程の長い火砲で支援射撃を

 行いながら、前進を開始し、 戦端が開かれたのです。

 これに対して、 劉 永福 大将軍の黒旗軍3千が応戦し、激戦となって行った

 のです。  


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    黒旗軍は 装備は旧式でしたが、 一度攻撃をしかけて、わざと、敗走し、

  フランス軍が 追撃して 追いかけてきたら、わざと負け続けて 退却し、

  引き寄せた後、 左右から挟み撃ちにする戦法で、わずか3千の兵力で

  1万のフランス軍と互角の戦闘を行っていったのです。


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        【 フランス軍を撃破した 清国 黒旗軍 劉 永福 大将軍 】





    フランス軍は、数百人の戦死者を出して 敗走し、対する 黒旗軍も、半数

    近い、千数百人が戦死し、大きな損害を出したと伝えられています。

    ところで、 清国から新たにやってきた、唐 景松 大将軍の軍勢は、

    当日模様眺めに終始し、戦闘に加わらなかったのです。



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           【 戦闘に消極的であった 唐 景松 大将軍 】 



  唐 景松 将軍らの行動に激怒した、劉 永福 大将軍は、戦闘に参加して

  敗走したフランス軍を追撃して、殲滅するよう抗議したそうですが、 動こうと

  しなかったそうです。

  このような出来事があって、 劉 永福 大将軍と、 唐 景松 大将軍らの

  新たに派遣されてきた 清国軍とは、 反目する間柄となり、後に、台湾防衛

  をすることになっていき、日本海軍と、近衛師団との戦闘で、両者大げんかして

  バラバラに戦い、 日本が勝利する原因になっていくのです。

  戦果を比較すると、 清国の黒旗軍が損害が多いですが、 戦術的に比較する

  と、 最新鋭の西洋兵器を所持した、フランス軍1万に対して、 弓、槍主体の

  旧式兵器のわずか3千人の黒旗軍が撃退したわけで、当時、世界の注目を

  集めたのです。



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         【 フランス インドシナ派遣軍 アメデ クールペ 提督 】


   海上の軍艦で 陸戦の敗北の報告を受けた クールベ提督は、激怒し、

 体勢を立て直して、再度、総攻撃を行うように命令を出したのです。

 こうして、 2日後 フランスと清国と阮朝との連合軍との大規模な 武力衝突が

  再度起きていったと言われています。


  【 明日に続く。】