第1933回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1932話 清仏戦争 第2次ソンタイ川の戦闘のその後の事。


                      2017年9月28日木曜日の投稿です。






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   【 再度突撃を命令した、 アメデ クールベ インドシナ派遣軍司令官 】


  
    1883年 明治16年の12月14日に発生した、 フランス軍と、清国、

 阮朝の連合軍との大規模な武力衝突は、 黒旗軍の劉 永福 大将軍が

 兵力3千で、奮戦し、 兵力1万のフランス軍は撤退したのですが、これを

 聞いた、 フランスのインドシナ派遣軍司令官 アメデ クールベ 提督は、

 再攻撃の命令を発し、 同年 12月16日 つまり 2日後に再攻撃を開始

 したのです。



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               【 清国 黒旗軍 劉 永福 大将軍 】


  14日の戦闘で、 清国の正規軍 唐 景松 大将軍の軍勢が、模様眺め

に終始して、戦闘に参加しなかったことに 腹を立てた、劉 永福 大将軍は、

そのまま、 安全な地域に後退し、 阮朝の亡命軍なども撤退してしまい、

フランス軍は、たいした戦闘をすることなく、 ソンタイ川の周辺を占領したのですが

それ以上 待ち伏せ攻撃を恐れて、内陸に進まなかったのです。



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   フランス軍は、 本国のパリに援軍を要請し、 ここに、双方 にらみ合いが

 始まり、 年を越して 1884年 明治17年に入っていったのです。



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 この年の初頭、 フランスは 外交ルートを通じて、正式に日本の太政官

朝鮮半島に出兵し、 朝鮮半島を占領し、鴨緑江を越えて、中国の遼東半島

日本軍に攻め込んでほしいと、要請してきたのです。



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  この 外交工作の裏には、 板垣、 後藤の 土佐自由党と、配下の三菱が

 絵を描いて、 フランスの外務省も、 インドシナでの戦闘を早く終わらせるため、

 背後から 日本に清国に攻め込んで 牽制してもらえればという考えで、 土佐

自由党朝鮮半島征討の思惑と、 戦争の物資運搬調達で一儲けしようという、

三菱の思惑と、 フランスの思惑が一致した 外交工作であったそうです。




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   このフランスの話しに、 陸軍の右派の 山縣 有朋公を中心とする陸軍の

 軍人や、影響下の官僚が、朝鮮出兵を叫び、 戦争の風が突如、日本に吹き荒

 れて行ったのです。

 フランスと阮朝 【ベトナム王朝】と清国の戦争に、日本が巻き込まれていったの

 です。



  【明日に続く。】