第1934回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1933話 明治17年の伊藤、西郷、黒田派の形成の事。


                           2017年9月29日金曜日の投稿です。




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                  【 死去した、右大臣 岩倉 具視 公】


   1884年 明治17年にフランスが 清仏戦争で手を焼いて 大日本国に

 朝鮮半島や清国への派兵を要請してきた頃の日本の政界は長い間、明治天皇

 と今の内閣にあたる太政官とのつなぎ役として、御側用人政治を続けることて゜

 権力を維持していた、 右大臣 岩倉 具視 公が 前年の明治16年7月に、今で

 言う 咽頭ガンで亡くなると、 太政大臣 三条 実美 公 らの公家の政治力は

 徐々に衰退していったのです。


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                  【 太政大臣 三条 実美 公 】


     翌年、 日本の政界は、日本陸軍に根を張る 長州閥の 山縣 有朋公

   らのグループと、日本海軍に根を張る、 薩摩閥の 西郷 従道公 の一派と

   薩摩閥の親分であった、 黒田 清隆 公のグループと、 外務省と内務省

   中心とした、 伊藤 博文 公の一派とあったのですが、 これらの派閥が、

   

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                   【 長州閥 の 伊藤 博文 伯爵 】


  伊藤 博文 伯爵を中心に固まっていったのです。



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   薩摩の 黒田 清隆 公 は、 自分のスキャンダルを流して、攻撃して来た

  大隈 重信一派との政争で、 伊藤 博文派が協力し、 大隈一派と慶応義塾

  一派 追い落としに随分協力し、恩義を感じ、 一緒に行動するようになり、

  日本海軍、 北海道開拓使に根を張る、 西郷 従道 公らの一派もこれに

  加わっていき、 伊藤派となって行ったのです。



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                     【  駐日フランス公使館 】


 フランス国から、「朝鮮半島に出兵し、 鴨緑江を越えて 清国に出兵してほしい。」

 との要求を聞いた 当時の明治政府は、太政官で協議したところ、陸軍が出兵を

 申立てたのに対し、 伊藤 博文公、 黒田 清隆公、 西郷 従道公などが

 反対に回ったと言われています。


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        【 陸軍を代表して 朝鮮半島に出兵を主張した 山縣 有朋公 】





  その理由は、今も良く伝えられていませんが、 フランスの背後で、前年、

 政争を行って 政界から追放した、大隈 重信 公と、 慶應義塾の福沢 諭吉

 先生の門下の 土佐自由党の 板垣退助 、後藤象二郎の存在に気がついて、

 「 清国言うたら、とてつもない広い 広い国じゃ、 部分的に日本が勝利しても

 全部を占領維持はとてもできん、 国が滅んでしまう。」 と主張し、朝鮮出兵

 反対したそうです。



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             【 朝鮮派兵に反対した 西郷 従道 公 】


   伊藤 博文 公 と一緒に 朝鮮派兵に反対した 西郷 従道 公は、「清国と

 事を構えて、 今の大日本国が勝利するには、海軍力の増強が必要で、その後に

 また、 検討するべし。」と、唱えたと言われています。


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 当時の清国は、ドイツ帝国などに 西洋式の新造軍艦を発注して その艦艇は

 30隻程度となり、日本海軍には大きな脅威であったのです。

 「 どちらにしても、もう少し 様子を見て判断するべし。」 と言う意見が大勢を

 しめたようです。


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                    【 外務卿 井上 馨 公 】


   このような経緯で外務省はフランス国に対して、大日本国の戦争不介入の

  申入れをしていったと言われています。

  こうして、土佐自由党の描いた、フランスから言わせて、大日本国に朝鮮半島

  清国軍を追い払わせようという計画は、 それを察知した 伊藤 博文公らの

  一派の反対で潰されてしまったのです。

  この年、明治17年頃から、 日本の政界は、 伊藤 博文公、 山縣 有朋公

  そして、 黒田 清隆 公、 西郷 従道公、に政治の主導権が移っていった

  時期でありました。


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  これらの経緯を後日聞いた朝鮮独立党のメンバーは、日本にいくら働きかけて

朝鮮半島に陸軍を派遣してくれることはないと、日本陸軍の利用をあきらめて、

自分達でなんとか決起しようと考えるようになって行ったと言われています。

  


【 明日に続く。】