第1959回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1958話 甲申事変【こうしんじへん】 竹添 進一郎公使の誤判断の事。

                        2017年10月24日火曜日の投稿です。




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     【  朝鮮駐留 清国軍司令官 袁 世凱 えんせいがい 将軍 】 




 みなさんもそうだと思いますが、 朝 起きてあくびをして、 朝ご飯を食べようと

したら、 政権が一夜にして交代し、 武装勢力によって、王宮が占拠されていたと

したら、どうするかーー。

 袁 世凱 将軍は軍勢に招集待機命令を出して、日本公使館周辺、王宮や

 いろんな所に、偵察隊の騎馬兵を出して情報収集に努めたのです。

 そうしていると王宮から逃げてきた人達が口々に、「 日本人に襲われたという。」

 そこで彼が考えたのが、日本陸軍が隠密にどこかに上陸して、奇襲をかけ、

 漢城を制圧したのかと当初思い込んだようです。


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  当時彼は、もし日本軍が奇襲してきたのなら、すでに仁川港も占領されている

と考え多いに驚き、仁川の周辺にも偵察隊を出したようです。 

  ところが、陽が昇って 袁 世凱将軍の動きを止めたのは、朝鮮の大臣に相当

する、右議政 の 沈 舜沢 という男が、王宮から脱出してきて、袁 世凱将軍に

保護を求め、 国王 高宗と、閔妃を救い出してほしいと、清国に出兵を求めた

のです。

  彼から 話を聞くに及び、 武力決起を起こした連中は、 国王 高宗と閔妃

身柄を押さえていて、 言うなれば、人質のような形となっていて、日本政府が

軍隊を派遣して 奇襲攻撃をかけて来たのではないらしいと言うことが徐々に

わかってきたのです。


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 仁川の港も平穏で、 漢城の周辺も、日本公使館の警備以外の日本兵

 いないことがわかってきたのです。

 そのうち、 王宮を警護していた当直の400人程度の朝鮮人の部隊と、朴

泳孝らの反乱軍、わずか100名程度の兵力と言う事がわかってきたのが、

12月5日の正午頃だったと言われています。 



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  袁 世凱将軍は、すぐ攻撃するのを控えて、 昌徳宮に移動した王宮の警護

部隊に対して、調略する方法を選んだのです。

 「今のうちに、清国側に帰順すれば罪は問わないので、協力するように。」と、

朝鮮人の使者を送る一方、 日本の朝鮮公使館周辺を見張らせていたと言われ

ています。



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   ところで、甲申事変2日目の当時、 日本公使館では、昌徳宮に国王 高宗ら

を日本公使が迎えに行くか、どうするか、評定が行われていたと言われています。

 日本公使館には当時、 朝鮮の漢城に在住していた日本人が200名ほど、避難

 して来ていて、 これらの人を守る事も大切な事であったのです。

 ためらいを感じ、決断を先送りし、判断に迷っていた竹添 進一郎公使に、言葉で

 圧力をかけたのは、 島村 久 書記官であったと言われ、 彼は、「朝鮮国王

 高宗の勅許を受けながら、 国王 高宗の御意に逆らうのは、後々、大日本国の

 為に良くないので、形だけでも一度 公使が直接 昌徳宮に参内されることが

 望ましいのではないか、 このまま放置すると、 国王の御意に逆らうこととなり

 いかがなものか。」と進言し、 そばに一緒にいた、日本陸軍の守備隊長、村上

 陸軍大尉も、この考えに同調したと言われています。



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  こうして、 何も関係の無い立場であった、竹添 朝鮮公使は、 昌徳宮に

 出向くように、島村 久 書記官に意見具申され、 最終的に 護衛の部隊を

 率いて 昌徳宮に出向くことになって行ったそうです。

 当時、朝鮮公使館には、仙台鎮台の陸軍歩兵 1個中隊200名が配置されてい

 て、村上陸軍大尉の提案で、 公使館に1個小隊他を残し、 兵力150名で

 竹添 進一郎 公使を護衛して、 国王 高宗が保護を求めていると言われる

 昌徳宮に出向くことになって行ったのです。



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  これが、大きな間違いで、 国王 高宗と閔妃は監禁されたような状態となって

 いたらしく、 周囲は 朴 泳孝 氏ら、朝鮮独立党のメンバーが周囲を固め、

 国王 高宗は、日本陸軍の保護など求めていなかったのだそうです。

 そんなことは当時わからなかったので、 竹添 朝鮮公使達は、守備隊を

 連れて日本公使館を出発する事になっていったのですが、 その動きは、逐一

 清国の偵察隊によって、袁世凱将軍に報告されていったのです。

 反面、文官であった 竹添 公使は、清国の軍勢の動勢などを偵察などを行って

 いなかったのです。

 どういうことかというと、 これから清国が攻めるであろう昌徳宮に、わざわざ

 出向いて、騒動に巻き込まれていく愚挙となっていったのです。

 当時、もし正確な情報が竹添公使にもたらされていたら、このような事には

 ならなかったのではないかと思います。
 
 相手の清国の軍勢の様子をつかんでいなかったことが、 大きな失敗となる

 判断につながっていったようです。


    【明日に続く。】