第1960回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1959話 甲申事変【こうしんじへん】日本陸軍守備隊の昌徳宮への出発の事。


                         2017年10月25日水曜日の投稿です。




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  私達が海軍兵学校で教わったことは、 まず、第1に目的を作って考える。

 例えば、 ミッドウェイ作戦のような場合、 ミッドウェイの島を占領する。

 その目的を考えるわけです。

 なぜ その島を占領する事が必要なのか、 どうしてなのか。

  
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   「島を占領して、飛行場を作って、 ここを拠点として、偵察基地を作って、

 哨戒活動を行う拠点とする。」 そうして、目的を完遂するにはどうしたら良いか

 と言う事を いろんな角度から考えて作戦を立てるわけです。

 どの程度の兵力が必要か、 占領した後の補給計画、占領地域の維持確保など

 どのような方法が良いのか、などなど、それは、それはいろんな方法を考えて

 万全な計画を立てるのですが、 計画を立てたつもりでもうまくいかない場合、

 どこがおかしいのかと反省会を開いて考えて見ると、やはり、当初の計画に不備

 があるわけです。


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  昭和17年の6月のミッドウェイ作戦の場合は、 草鹿 龍之介 参謀長曰く、

偵察活動が実に雑であった、 そのため、相手の位置、兵力、その規模、動きが

まったくわからず 目隠しをした状態で、受け身のまま、防戦一方となり敗北して

いった。



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確かに、吉岡 忠一 航空乙参謀の立案した 偵察計画は、草鹿 参謀長の

裁可を経て、実行に移されたのですが、隙間が多かった、 そして、運が悪いこと

が連続して重なって起きていった。

 このような戦訓から、 偵察活動というのは非常に大切な事なのです。


1884年 明治17年12月5日の大朝鮮国の首都の漢城での出来事も同様で

1番肝心な 清国の朝鮮駐留の軍勢の正確な位置、兵力が、良くつかめていな

かった、 つまり 偵察活動を疎かにした結果、相手の動きがよくわかっていな

かった。

  結果、 紛争地域に自ら入っていく愚挙をおかしていったと分析します。


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  竹添 進一郎 さんという人は、 学者タイプの頭のよい人で勝 海舟さんが

一目置く人で、後に 東京帝国大学の教授になるような頭の良い人でした。

 彼は 外務省の井上 馨 外務卿の指示通り、 2年前の花房 義質 朝鮮公使

 らが仁川で朝鮮人に襲撃された事件を参考に、 海上に艦船を用意して、仁川

 での避難場所を海上に作るなど、避難準備は事前に用意していたようです。

 当時、日本公使館には200名程度の避難民が押しよせていて、これらの人達を

 まず 仁川に移動させ、それと一緒に保護を求める 朝鮮国王 高宗らの近臣ら

 を一緒に仁川に移動させて警護する事を当時考えていた様です。

 彼は、島村 久 書記官らに、これらの行動の準備を指示し、 自らは村上陸軍

 大尉ら150名の兵力を同伴して、 昌徳宮へ向かったと言われています。



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 言い伝えでは、 その日時は、 1884年 明治17年12月6日 午前中であった

と言われています。

こうして、 朝鮮国王からの保護を求める勅令があれば、日本陸軍の派兵を行う

との、島村 久 書記官の朝鮮独立党への約束は表面上実行される事になり、

島村 久 書記官は面目を保つことになって行ったのですが、 実はこれが、清国

日本陸軍の武力衝突に発展することになっていったのです。

いよいよ 甲申事変の中心的出来事の、昌徳宮での清日の武力衝突事件になって

いきます。


【 明日に続く。】