第1963回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1962話 甲申事変【こうしんじへん】清日武力衝突事件の事。

                         2017年10月28日土曜日の投稿です。



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    【前話からの続き。】


   1884年 明治17年の12月6日の清国の朝鮮駐留軍と、大日本国の

 朝鮮公使館 警備隊との銃撃戦は、 言い伝えによると 14時頃発生したと言わ

 れていて、戦後の現在、語られることなく知る人は少ないのが現状です。

 いろんな記録からたどっていくと、おおよそ こんな感じだったようです。

 

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         【 朝鮮駐留 清国軍 将軍 袁世凱 えんせいがい 】



  袁世凱将軍は、兵力1500名の内、 後軍として、200名 駐屯地の警備で

  守備隊として残し、 2隊に別れて出陣し、 一隊は、呉 兆有 将軍が500名

  の兵力で、昌徳宮の西側に布陣し、 袁世凱将軍の本隊は、兵力800名で、

  南側の正門の前に布陣したと言われています。



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上の航空写真の左の宮殿が、景福宮 と呼ばれる 本来の国王の住む王宮で、

東に1キロ程度行くと、山があり、そこの麓に当時、 昌徳宮という離宮があったの

です。  

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   右を拡大すると、 矢印の場所が昌徳宮です。

   ここの 南と西から、清国は2隊で 攻撃を開始したと言われています。


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    当時、大日本国の公使館警備隊 村上陸軍大尉以下、仙台鎮台の兵士達

150名は、 上の写真の矢印あたりに待機していたと言われています。



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  攻撃は、清国の方から、一方的に当初 押しよせて来たと言われています。

 こうして、 日本陸軍 公使館警備隊は、 竹添 公使が出て来るのを待っていた

 時に、 清国の方から押しよせて来て、 正門が打ち破られて、 ときの声を上げて

 清国の兵士が800名ほど、襲いかかってきたようです。



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 当時の日本の小銃は、後装填式の単発小銃で、部隊を三隊に分け、鶴翼の陣

を敷いて、 各部隊を2列縦隊に分けて、 小銃で1列ごとに交代で、一斉射撃を

行って、正門から突撃してくる清国の兵を、 つるべ打ちに射撃したようです。

言い伝えによると、 日本陸軍の村上部隊の射撃で30人程度の清国兵が倒れ、

清国兵は、後退していったと言われています。

ちょうど、 14時頃の出来事であったようです。



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 これらの銃声と同時に、別の門から 呉 兆有将軍の部隊、500名が攻撃を

開始し、これを迎え撃つ予定であった、朝鮮人部隊は、迎撃を行わず、裏切って

清国の 呉 兆有将軍の指揮下に入り、 なんと、一緒に宮殿になだれ込み、

別の門を守備していた朝鮮人兵士達は、これを見て、 配置場所から逃走して

行ったと伝えられています。

こうして、戦っているのは 日本陸軍の村上部隊と、 呉兆有将軍と、裏切った

朝鮮人部隊を、 朝鮮独立党と土佐自由党の壮士、約数十名で応戦する形に

なって行ったと言われています。


【 明日に続く。】