第1976回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語 】
第1975話 甲申事変【こうしんじへん】第2次朝鮮独立党の弾圧の事。
2017年11月10日金曜日の投稿です。
【 第一銀行 仁川支店 】
【 前話からの続き。】
1884年 明治17年 12月8日、 朝鮮半島の仁川港にある 第一銀行
の行員達が、 「清国人に捕まったら、公開処刑で凌遅の刑【りょうちのけい】に
処せられたら大変だ。」 と、大騒動になったお話は紹介したのですが、当時、
日本人だけでなく、朝鮮人の人にも清国人は大いに恐れられていたのです。
2年前に 清国は朝鮮半島に軍事介入し、大院君 興宣の系列の官吏だけ
でなく、家族や、親戚まで捕らえて、 広場に連行し、 すぐ処刑せずに、肉を
少しずつ 切り取って 殺していく 凌遅の刑【 りょうちのけい】という公開処刑を
行って、 それはそれは、「 清国人に楯突いたら とんでもない事になるる」 という
物の考え方を 朝鮮半島の人達に刻み込んでいったのです。
【 清国 朝鮮駐留軍 袁 世凱 えんせいがい 将軍 】
親族を 逮捕を命じ、 多くの人が 罪もないのに 連行されて 公開処刑
されていくことになって行くのですが、 2年前の 凌遅の刑で殺害されていく
姿を見ていた、漢城の官吏とその家族は、 人前でさらし者となり、苦しんで死ぬ
より、自ら命を絶つ人が多く出ていったのです。
国王を守って、 北門で殺害された 洪 英植 氏の父親は、 英植氏の
子供らを、 清国人にむごい殺し方で殺害されるよりは、自ら殺そうと思い至り、
毒を飲ませて殺害後、 自ら命を絶ち、その親戚の人達も、自決をしていった
のです。
当時の 言い伝えによると、 直接 独立党協力者とされた 43名の他、その
直接の家族、 その親族など、数百名が清国人に むごたらしい処刑方法で、
広場に連れ出され、 公開処刑されていったと言われています。
この処刑を見て、 朝鮮人の人達は、多いに恐怖し、 さらに清国人を恐れる
ようになって行ったのです。
仁川に 日本人と一緒に逃走した、9名の朝鮮独立党の 朴 泳孝らを追討
する軍勢を 首都 漢城から 仁川港に向けて出発させていったのです。
仁川の港では、漢城から 清国の軍勢が仁川に攻めてくるとの情報が
駆け巡り、 大騒ぎになって行ったそうです。
その原因は、日本人にあるとのことで、 日本人と関わり合いにならない方が
身のためと言う噂が広がり、 仁川では、 日本人は 物を売ってもらえないとか、
買ってもらえないとか、 孤立していったようです。
当時の 仁川の日本領事館では、 日本海軍の陸戦隊と、公使館警備隊の
1個中隊では とても心許ないとの結論に達し、 電信で 東京の外務省に、
援軍を急派するように意見具申が行われたのですが、 回答は、「 極力、武力
衝突を回避し、日本人の生命、財産を守る事を第一とするように。」 との返電
しか来なかったそうです。
こうして、 仁川港周辺では、清国の軍勢と、 朝鮮 閔氏派の軍勢対、日本
陸海軍の軍事的緊張が高まっていったのだそうです。
そう言う中、 前話で紹介したように、朝鮮独立党の9名は、 井上 角五郎先生の
手引きで、 仁川の港の海上の千歳丸に移されていったのですが、 仁川の
郊外の 清国の軍勢から、彼等を引き渡すよう 軍事的圧力がかけられていった
のです。
当時、 仁川の日本領事館では、小田原評定が続き、 東京の外務省の
指示通り、自衛に徹して、 交戦を避けつつ、 話し合いで衝突が避けられな
いか協議が続いたようです。
そして、 朝鮮独立党の9名を 清国に差し出して、 物事を終わらせようとの
意見が強くなったのですが、 その時には、 朴 泳孝 ら 9名の姿は 仁川
から消えていたのです。
【 山崎 永春 こと、 朴 泳孝 氏 】
後のお話しですが、井上 角五郎先生の行動が1日遅れていたら、日本人に
よって 9名は捕らえられ、清国人に 引き渡され、間違いなく処刑されていた
であろうと、 朴 泳孝 氏は語っていたそうです。
ところで、 朝鮮独立党 の9名が 日本領事館の把握していた場所から消え、
清国との 和平をどうするかと言う事について、 仁川日本領事館では大騒ぎ
になっていったそうです。
つまり、9名を生け贄にして、自らは保身に走ろうとしていた当時の領事館の
メンバーは、大切な手元の捨て駒が消えてしまったわけです。
そんな中、 清国の軍勢の中から、朝鮮独立党の9名の身柄引渡を求めて
使者が軍勢を引き連れて、日本領事館にやって来たそうです。
【 明日に続く。】