第1981回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1980話 甲申事変【こうしんじへん】 朝鮮独立党の大日本国への亡命の事。







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  【前話からの続き。】


  1884年 明治17年12月11日 朝鮮の仁川港を出港した 千歳丸は、12月

の波浪の中、 大きく揺られながら 13日の早朝に長崎港に入港し、 朝鮮独立党

の9名は、長崎に上陸したそうです。

当時の事を紹介する資料では、金 玉均こと、 岩田 周作さんの生前書いた文章

によると、 暗い船倉で、 にぎりめしの差し入れだけで3日間の船旅をして、長崎

に着いた時は、生きた心地がしなかったとあります。

そして、朝鮮独立党の同志と手を取り合って無事到着を喜んだとあります。




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そして、 辻 勝三郎 船長に挨拶に行き、辻船長の紹介で、日本商船の事務所

に行き、 そこの事務所の紹介で、 岩原郷西坂の海産物商の 松浦治兵衛氏の

 離れに身を寄せ、 井上 角五郎先生が手配した、玄海丸という商船に 12月

14日の夜に乗り込んで長崎港を出港し、 神戸港を経由して横浜港に至ったと

言われています。 


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                     【  当時の 慶應義塾 】


   ところで、朝鮮独立党の 金 玉均氏らが、 負傷した 朴 泳孝氏らを

 担いで、横浜港に降り立ち、向かったところはどこであったのかと言うと、東京の

 三田に当時あった、 慶応義塾であったそうです。

 どうして、慶應義塾に行こうとしたのか、 頼るところがなかったのか、 井上

 角五郎先生 に薦められたのか、 当時、日本の明治政府からすると、迷惑

 千万な入国であったのは事実です。



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           【 金 玉均氏を流刑にした  山縣 有朋 公 】


    後に、 明治政府は、彼等を逮捕し、 小笠原諸島などに流刑に

    したりするのですが、 それは又 後に紹介する事にして、 当時の



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    慶應義塾の経営者 福沢諭吉先生は、 朝鮮独立党の9人が押しかけて

    きて、 どういう決断をされたのでしょうか。

    みなさんでしたら、 知らん顔をして、追い出して、塩を撒きますか、

    どうですか。



   【 明日に続く。】