第1984回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1983話 甲申事変【こうしんし゜へん】 三田福沢邸での福沢 井上会談の事。
2017年11月18日 土曜日の投稿です。
1884年 明治17年12月20日頃の事、 朝鮮独立党の 朴 泳孝氏らが
慶應義塾の横の福沢 諭吉先生の自宅に転げ込んできた数日後、 同校の
門下の井上 角五郎先生が、福沢 諭吉先生を訪ねて来て、外務省の当時の
外務卿 井上 馨公に 紹介状を書いてもらいたいと懇願しに訪れたと言わ
れています。
【 当時の東京 三田の 福沢 諭吉先生宅 】
福沢 諭吉先生は、井上 角五郎先生を見るなり、「よく生きて帰国してくれた。」
を知る事になっていったと言われています。
の活字を調達し、 自由民権の推進のために朝鮮国に寄付した品すべてが、甲申
事変で灰となって消えたことを知ると、厳しい表情でその話を黙って聞いたそう
です。
男女平等、身分制の封建政治を終わらせ、議会制民主主義を推進すること
こそ、興亜の為、 それが大日本国の将来のためになるとの考えが、朝鮮独立党
目をとじて、 井上 角五郎先生の話を聞き、 井上 角五郎先生は、すぐ朝鮮に
立ち戻り、 清国、大朝鮮国、 大日本国の対立した今の状態を終わらせ、
新たな友好関係を構築するため、ぜひ、 外務卿の 井上 馨公に目通りを
求め、自分のお話を 意見具申したいとの申し入れを 福沢 諭吉先生に
話したそうです。
黙って聞いていた、 福沢 諭吉先生は、腕組みをしたまま、「 もうーーその
必要はあるまい。」 と、静に語り、 「 仮に 井上 外務卿の協力を取り付けても
清国人や、朝鮮人が、 井上君、 君の話を聞くかと言うこと、 疑問だ。」 と、
回答したと言われています。
「 そして、 問答無用で、殺されたらどうするのか、 少し間をおいて、様子を
観察してはどうか。」 と、 語ったと言われています。
ところが 井上 角五郎先生は、 「こういう時だからこそ、 それがしが、危険を
新聞を読むという事が認められ出した時に、 それを投げ出してしまうと、今までの
苦労が無駄になり、 清国と、 大朝鮮国と、 大日本国が並び立つように、架け橋
になりたいと思うのです。」 「 ぜひ、 紹介状をお願いしたいのです。」と、重ねて
申し入れ、 福沢諭吉先生は、 門下の高弟 井上角五郎先生の身を案じながら
紹介状を書いたと言われています。
井上 角五郎先生は、この福沢諭吉先生の紹介状を懐に入れると、外務省に
乗り込んでいったと言われています。
【 明日に続く。】