第1985回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1984回 甲申事変【こうしんし゜へん】 福沢諭吉先生の紹介状の事。





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               【 慶應義塾経営 福沢 諭吉先生 】



   【 前話からの続きより。】


   関係が悪化した、清帝国 と、大朝鮮国との関係修復のため、微力ながら

 朝鮮半島漢城に乗り込んで尽力したいという 井上 角五郎 先生の希望で、

 外務省の 外務卿【 現在の外務大臣に相当】の井上 馨 公に紹介状を書い

 てほしいとの申し入れに、 福沢 諭吉先生は 多いに悩み、 目をとじて考え

 るに、 慶応門下の彼が漢城に再度行くと、 自由民権派の1人として 問答

 無用で殺害される可能性が高く、 止めたのですが、 聞こうとしないので、放置


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 すると、1人で行ってしまうであろうし、 福沢諭吉先生は、考えた末、 外務省の

 使節団と一緒なら、 清国や朝鮮人も彼には危害を加えまいと考え至り、井上

 馨 外務卿 宛の 紹介状をしたため、 井上 角五郎先生に手渡したと言われ

 ています。 


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  井上 角五郎先生は、 外務省に出向き、 受付の衛視に対して、「 大朝鮮国

統理衛門 博文局 主任 井上 角五郎 です。外務卿 の井上 馨 公に面会し

たい。」 と告げると、 衛視は、 ぽかーんとして、 聞いたことのない肩書きに、

 戸惑いを見せたそうです。

 ずいぶんと、数時間待たされて、 井上 外務卿と面会できたそうです。

 福沢諭吉先生の紹介状を事前に事務官に渡し、 その中には、「慶応義塾門下

 井上 角五郎 と言い、 大朝鮮国の 統理衛門 博文局主任ーーーー云々。」  

 と書いてあり、 要約すると、現在の大朝鮮国の政府に対して、知人が多く、

 また、 朝鮮駐留の清国軍の幹部にも知人が多く、 現地の言葉にも精通し、

 大朝鮮国の政府との関係修復に尽力したいとの申出があり紹介状をしたためる。

 と言う内容であったそうです。


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   井上 馨 外務卿は、 慶応義塾門下の人を 外務省が使用することにつ

いて、政府内で苦情が出ることを恐れ、 考えたようですが、 井上角五郎先生が

大朝鮮国の政府の 役所の 統理衛門の 印刷部門の管理職で、現地の事情に

も詳しく、 甲申事変の経緯についても 東京では知り得ない事も知っていて、

 外交使節団と一緒に 同行することを許可したそうです。

 その目的が、清帝国と 大朝鮮国の政府との関係修復という事について当時の

 外務省と共通していたことも、井上 馨 外務卿の心を動かしたようです。



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   【 慶應義塾 高弟 井上 角五郎先生 広島県福山市誠之館出身 】


  こうして 井上 角五郎先生は、1884年 明治17年12月22日に外務省の

 使節団と一緒に 再度朝鮮半島に渡ることになって行ったのです。

 甲申事変が発生して、ちょうど18日後の事でありました。


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   当時の議論の中心は、 戦争状態となっている 清国の朝鮮駐留軍と、

  大朝鮮国の政府の閔氏の軍勢と、 交戦を避けて、 どう和平を進め、

  3カ国の関係改善を行いつつ、 殺害された 36名の日本人の他、焼き討ちと

  なった 日本公使館の再建費用などの 損害賠償を 大朝鮮国の政府に

  求め、 彼等の同意を取り付けるかと言う事にしぼられていったと言われて

  います。


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                 【 統理衛門 総裁 金 允植 氏  】



  井上 角五郎先生 は、 統理衛門 総裁 の 金 允植 氏を通じて

  大朝鮮国の政府に根回しすることを 提案したと言われています。 

  こうして、 日本の外務省の 外交は 明治17年の年末に始まって行ったのです。


  【 明日に続く。】