第1986回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1985話 甲申事変【こうしんじへん】 3人の井上氏の事。


                    2017年11月20日 月曜日の投稿です。




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                        【 伊藤 博文 公 】


     【 前話の続きから。】

   
 1884年 明治17年の12月20日頃、当時の太政官【 だしょうかん 内閣相当】

の事実上の実力者となっていた 長州の 伊藤 博文 公は、 陸軍の軍人や、旧

土佐藩の連中が、「 朝鮮半島に出兵して、清国に天誅を加えるべし。」と言う、

強行的な意見や、申立を無視する形で、 和平使節を送る事を決定し、 すでに

武力衝突に発展し、 開戦状態となっている 清国との交渉などを行う全権大使

に、 外務省のトップの 井上 馨 外務卿を任命し、 さらに、助っ人として、



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    【 大日本国 全権大使 となった 井上 馨 外務卿  山口県出身 】


 参事院議官 井上 毅 【 こわし】 氏を副使格に任命し、清国と大朝鮮国

との戦闘状態を終結させ、外交関係を元の状態に戻すことを決定したそうです。



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        【 参事院議官 井上 毅 【こわし】 氏 熊本県 出身 】


   伊藤 博文 公は当時、 この井上 毅さんに、憲法の調査業務を命じていて

 元は、肥後熊本藩の下級武士の出身で、 朝鮮公使の 竹添 進一郎氏と

 同郷で 知り合いの間柄で、 司法省の役人であったところに、 暗殺された、

 薩摩の大久保 利通公が、 使える男 と見て重用し、 その死後、 右大臣

 岩倉 具視公が重用していた人でありました。

 頭の回転の速い人で、 伊藤 博文公も、いろんな仕事を任せて 重用していた

 人でした。

 つまり、 仕事の出来る人で、気配りに長じていて、 人に嫌われない人で

 あったそうです。

  後に、 文部大臣に就任することになって行く人でありました。 


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         【 慶應義塾 高弟 井上 角五郎先生  広島県福山市出身】


   以上のような経緯で、 1884年 明治17年12月22日頃、大日本国の

   外交使節団は、前話で紹介した、 慶應義塾の高弟の 井上角五郎先生を

   含めて3人の井上さんを中心として編制され、 陸軍から護衛の陸上兵力と

   して、 福岡鎮台から1個大隊、 広島鎮台から1個大隊、総兵力2千名の兵力

   と、日本海軍の3隻の艦艇と、日進を加えた艦隊を朝鮮半島の仁川港に派遣

   する事になっていったのです。



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   現地に到着したのは、12月27日頃と言い伝えがあって、 緊張した雰囲気

   で、明治18年を迎えることになっていったのです。


  【 明日に続く。】