第1989回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1988話 甲申事変【 こうしんじへん】 外務省の打草驚蛇の計の事。
2017年11月23日木曜日の投稿です。
【 当時の 仁川港の様子 】
【 前話の続きから。】
1885年 明治18年の 1月 1日 清国の天津から転進してきた、呉 大徵
緊張が高まり、 一般の人々は、 朝鮮で 外国の軍勢同志が武力衝突し、
結果、 朝鮮人が戦争に巻き込まれると推測し、 年明けから大騒ぎになって
いったのです。
大院君 興宣が政治を行っていた当時は、朝鮮人の手で政治を動かし、
の一族が、自分達の権力維持の為、 外国の軍隊を 朝鮮半島に呼び込み、これ
らを初めは利用していたのですが、 その後、 これらの勢力に取って代わられ、
朝鮮半島は、清国人に乗っ取られ、 反抗する人達は、 女子供、親戚まで
捕らえられ、広場で見せしめに 殺害されていったのです。
このようになって行ったのは、閔妃と 閔氏が原因であるとして、 愛國者を
中心として 不満が高まっていった矢先に、 甲申事変が発生し、これが さらに
清国に武力弾圧され、 朝鮮半島は暗闇に包まれていったのです。
統理衛門 博文局の主任であった、井上 角五郎 先生は、井上 馨 外務卿
らに、 開化派で、 統理衛門 の 金 允植 総裁を通じて、内々に朝鮮の政府に
根回しを行い、 安全な場所で、 清国を除外して、 大朝鮮国政府との外交会談を
提案し、その根回しに、 漢城に潜入することになって行ったそうです。
【 外務省 井上 馨 外務卿 】
外務省の 井上 馨 外務卿のとった手とは、 打草驚蛇【だそうきょうだの
けい】と呼ばれ、 草むらを棒で叩いて、 蛇を驚かせて 場所を知る という意味
がある計略を用いたそうです。
それは、 命をかけて 誰かが漢城に出向いて、 相手の様子を探りに行って、
その様子に基ずいて次の手を考えようと言う計略であったそうです。
【 当時の大朝鮮国の首都 漢城 現在のソウル 】
まずは、井上 角五郎先生 が、内部から 水面下で 大朝鮮国の政府と
コンタクトを取り、 正面から 外務省の 朝鮮公使の 竹添 進一郎 公使が、
大日本国の言い分をしたためた 国書を持って、漢城を訪れることになっていった
そうです。
【 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使 熊本県 天草出身 】
一言で、漢城に行くと言いますが、 当時は命がけの仕事であったのです。
一分違うと、 清国人に捕まって 殺される可能性が高く、 竹添 進一郎 公使
のお供をして 漢城に行く事になった、 仙台鎮台の警備隊は、別れの杯を
新年早々行って、 仁川から 漢城に出発したと言われています。
こうして、 仁川の日本領事館に避難していた 竹添 進一郎公使は、
再び、 命がけで 大朝鮮国の首都 漢城に向かって、出発する事になって
いったのです。
【 金 允植 博文局 総裁】
が 相談に行った 金 允植 総裁は、 井上 角五郎先生の話を聞いて
考え混んでいったそうです。
【 1885年1月の甲申事変の 清朝日の軍勢の布陣図 】
どういう事かと言うと、 大日本国と大朝鮮国の政府との問題なら手の打ち
ようがあるものの、 難しいのが、 清国が軍事介入してきて、 漢城とその周辺を
占拠してしまっていること、 清国の袁世凱将軍ら、 清国の軍勢は、 日本の
朝鮮公使 竹添 進一郎 公使らが中心となって、 閔氏の政権を武力で奪い
反乱を起こしたと思い込んでいて、 そこに 朝鮮人の1人の大臣が、何を言って
も海に向かって 石を投げるような物で、 どうするべきかーー、多いに戸惑った
ようです。
【 明日に続く。】