第1990回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1989話 甲申事変【こうしんじへん】 大日本国の申入れの事。


                         2017年11月24日金曜日の投稿です。



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   1884年 明治17年12月4日の夜発生した、甲申事変 【こうしんじへん】

と呼ばれる政変から、 約1ヶ月後の 1885年 明治18年の1月初旬に、

大日本国の代表者として、 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使が、漢城の 昌徳宮

を 護衛の兵士と供に訪れ、 日本側の言い分を漢文でしたためた国書を、

当時の 清国の 呉 大徵 北洋副大臣らに、手渡したと言われています。



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   申入れのおおよその内容は、 大日本国の公使館 警備隊は、 国王 高宗

の呼出に応じて、昌徳宮に出向いたところ、 いきなり 清国の軍勢に一方的に

襲われ、 その後、漢城の市中で、日本人が 清国の軍勢に問答無用で襲われ

虐殺され、その被害者は36名にも及び、 新築間もない 日本公使館が焼き討

ちされ大きな被害を受け、 日本人に危害を加えた清国人の部隊指揮官の処分

とその損害賠償を請求するという内容であったそうです。




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        【 朝鮮駐留 清国軍 司令官 袁世凱 えんせいがい 将軍】



   これらの話を聞いた、袁世凱将軍は、「 ふん。謝りに来たのかと思えば、

無礼千万。」と多いに立腹し、 12月4日から5日にかけて、殺害された 大朝鮮

国の大臣の6名の命の償いは、 大日本国に 損害賠償を求め、 日本人が反乱

を起こし、清国の兵士や、朝鮮の兵士が多数死亡し、 漢城の町が日本側の放火で

炎上し、これらの責任のすべては、 竹添 公使にある。」と言い放ち、談判に及んだ

と言われています。



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   第1回の 清国と 大日本国との 外交交渉は、双方が言い分を申立て、

 非難合戦となり、 竹添 進一郎公使は、短時間で 漢城を退去したと言われて

 います。


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              【  井上 馨 外務卿  山口県萩市出身 】



 西の 仁川の港にあって、 これらの出来事の報告を受けた、当時の全権大使

 井上 馨 外務卿は、 険しい表情で 次の一手を考え実行して行ったと言われ

 ています。

 それは、 どんな計略であったのか、 また明日お話ししようと思います。


【 明日に続く。】