第2016回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2015話 甲申事変【こうしんじへん】 外務協弁 メレンドルフの決断の事。
2017年12月20日水曜日の投稿です。
【前話の続きから】
1885年 明治18年 4月の終わり頃の事、 当時の大朝鮮国とは名ば
かりとなり、 当初利用していた 清国人に、壬午事変で国を乗っ取られ、司法
行政、外交、など、 そのほとんどを清国人に実権を握られ、年貢が入っても
清国人が 貢ぎ物 と称して 持ち去っていき、 大朝鮮国の国庫にはスズメの
涙程度しか入らず、官吏の給金も支払いが滞る状態であったそうです。
銭をもたせると、よからぬ事を企てるので、朝鮮人の力を削いでいたようです。
その清国側の 外交部門のトップとして 外務協弁 メレンドルフさんは存在
王宮の人達と会話している間に、気の毒に思う様になっていったようです。
【 外務協弁 パウル フォン メレンドルフ ドイツ出身 】
そんなところに、 閔妃から、ロシアとの秘密交渉を依頼され、断るわけに
いかず、 そして彼が当時考えていた事というのは、 巨文島に侵攻したイギリス
海軍に、ただ撤退を求めても、 効果はないであろうと思っていたようです。
そして、 清国の名前を出して、 清国が圧力をかけても無駄であろうと考えた
ようです。
当時の大英帝国と呼ばれていたイギリスは圧倒的な軍事力と経済力を有し、
衰退していた清国では、相手にされないであろうと考えたようです。
みなさんでしたら、どうされますか、 現在で例えると、 隠岐島が外国に占領され
たとします。
自分の国には、軍事力が弱く、相手が圧倒的な軍事力を持っていて、自分の国
で対処出来ない場合、どうするのか、 誰かを仲裁人にして、その仲裁人の軍事力
と力にすがって、 「隠岐島 返してください。」と、言うしかないわけです。
それと同じで、メレンドルフさんは、 まず 清国を仲裁人にした場合を考えた
ようです。
当時のイギリスと戦争を行い、清国は大敗し、香港をとられ、多額の賠償金を
支払わされ、 そして、数ヶ月前、フランスと戦争をして、大敗し、台湾を占拠され
ていた当時、 清国が仲裁人になっても良い事にならず、かえって事態が悪化する
と考えたようです。
大日本国を利用するかとも、考えたようですが、 当時の日本政府は、甲申事変
の直後なので、仲裁人にはならないであろうと思ったようです。
軍事力を背景に、清国を加え、 大朝鮮国の3カ国の共同提案という形で
イギリスに圧力をかけて、撤退を迫ろうと考えたようです。
潰されてしまう為、 しばらくの間 話を内密にして、 イギリス側との交渉の後、
折を見て、袁世凱将軍に考えた上で、支障がないように話を行おうと思ったよう
です。
【 当時の 大朝鮮国のロシア公使館 】
外務協弁 メレンドルフさんは、 ロシア公使館に出向いて、ウェーバー公使
と打ち合わせして、 ロシア側から イギリス側に、「 巨文島は、大朝鮮国から
ロシア帝国が 租借契約しているので、すぐさま退去するよう、書面で申し入れを
してもらいたい。」 と頼み込んで、これを実行してもらい、 ロシア帝国の軍事力
の威圧を背景に、 日本の長崎港に停泊していた イギリス海軍の極東艦隊
司令部に撤退を求めて長崎に出向いたと言われています。
【 当時 イギリス海軍が占拠した 巨文諸島 】
外務協弁 メレンドルフさんは、知恵を出して、ロシア帝国と清国と、大朝鮮国
の政府の3カ国の撤退要求という形をとったのですが、それに懇意にしていた、
の申し入れを行った事が、 実は逆効果となっていったようです。
そんな事は、 情報が発達していなかった当時、 しかたがなかった事であったと
言われています。
そして、 密かに諜報活動を行っていた、袁世凱将軍に、ロシアとの秘密交渉
を黙っていたことで、 袁世凱将軍は、配下からの報告を聞いて行くうちに、外務
協弁 メレンドルフを 裏切り者と考えるようになって行ったと言われています。
こうして、甲申事変の後半のお話しは、舞台を日本国に移して、激しい外交の
駆け引きが行われていったと言われています。
当時の明治18年頃、 日本の長崎港で、巨文島事件の事について、イギリス
海軍と大朝鮮国の政府の外務協弁 メレンドルフさんと、 どんな交渉が行われ
たのでしょうか。
次回、一緒に勉強して見たいと思っています。
【 明日に続く。】