第2046回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】


第2045話 山陽自由党 石黒函一郎【かんいちろう】 代言人と金 玉均氏の事。

                   
                    2018年1月19日金曜日の投稿です。




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  【 前話からの続き。】


    1885年 明治18年の9月、 備前国 いまの岡山県岡山市にやって来た

  朝鮮独立党 の 金 玉均氏が当時、探したのが、山陽自由党という、政党の

  事務所 兼 石黒 代言人の事務所であったのです。



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                     【当時の 岡山城下 柳川筋 】


  みなさん、 代言人 【だいげんにん】 などと言う言葉は、戦後の現在 使用

する事はほとんど無いのですが、当時の明治の頃は、今で言う 弁護士の仕事に

似たような 仕事をする人達の事を言いました。

 似たような仕事 と言う表現をしたのは、 若干 業務内容が 当時のほうが

 ダーディーではなかったのです。

 弁護士という人も、 良い弱い人の味方ばかりではないようで、 最近は、自己

中心的な弁護士やトラブルを起こす人が多いようです。



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   当時、山陽自由党は出来て数年で、まだ 規模も小さく、基盤も弱かったの

 ですが、 日本でも有名な政党で、 若い聡明な、おねーさんが、演説することで

 それは それは 紅一点で、 有名であったそうです。


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  そのお話しは、 立憲改進党の 犬養 毅 記者に 金 玉均 氏が聞いたよう

 です。

   男尊女卑の風習があった 朝鮮半島出身の彼は、その話しに興味が

  特に沸いたようです。


 

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   【 代言人 石黒 氵函一郎 かんいちろう 先生 後の衆議院議員




  かんいちろう のかん と言う字は 氵に函 という漢字を書くのが正式だ

  そうで 正しい旧漢字の表記の名前だそうです。

 明治18年の当時、 石黒 函一郎先生は31才の 若手の自由民権活動家

 で、 良識のある 立派な先生でした。

 そんな、石黒事務所を 金 玉均 氏は訪問し、 犬養 毅 記者の紹介状を

 出して 面会に及んだと言われています。


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                【  朝鮮独立党 金 玉均 氏 】


  石黒 先生は、 どちらかというと、 土佐 自由党の板垣 退助さんの系列の

 自由民権活動家たったそうで、 時々 文通をしたり、 数年に一回、 板垣

 退助 先生が岡山に来られたとき、 会っていたそうです。

  まず、 金 玉均 氏の目的は、 石黒代言人を 自分の協力者にすること

 でした。



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       【  立憲改進党 の犬養 毅 記者  岡山県 庭瀬出身 】



 そう言うわけで、 同じ 岡山県の 犬養 毅 記者の紹介状を持参し、自由民権

 の総本山とも言うべき、 慶應義塾の福沢 諭吉先生の門人と名乗り、接近して

 行ったと伝えられています。


   【 明日に続く。】