第2047回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2046話 山陽自由党 影山 英子 先生の事。
2018年1月20日土曜日の投稿です。
【 前話からの続きより。】
1885年 明治18年9月、 朝鮮独立党の 金 玉均 氏が、わざわざ
責任者の石黒 氵函一郎 【かんいちろう】氏に面会して 自らの協力者に
することと、 もう一つの大きな目的は、 山陽自由党の 当時、 東洋の
ジャンヌダルクと 評判があった 影山 英子 女史を、 自らに協力して
もらえるように 友好親善工作を行うことであったと言われています。
【 フランスの英雄 ジャンヌダルク 】
だったと言われています。
士族の家で、 幼少の頃から 学問が出来たそうで、 なんと 女子で15才
ながら、学校の教員に採用されたという、 当時、岡山市では有名な女性
というか、 お姉さんであったそうです。
みなさん、いくら明治時代と言っても、 15才で学校の先生をするというのは
それだけ 彼女が頭脳明晰であったということで、 周囲が認める先生であった
そうです。
そこへ、 彼女が手に取った本が、 福沢 諭吉 先生の 自由民権の本だった
ようです。
して、飯炊きが出来れば良い。」 と、多くの男が公言していた当時、彼女は、
福沢 諭吉 先生の本を読んで、 人生に光明が差したそうです。
「男も女も、世の中の誰もが平等で、 人間そのすべては平等で、一から出発し
努力して進んだ人が評価され、そして、 社会の為に役に立つ事を心がけ
学問を世の中のために役立てなければならない。」 とする言葉に酔って
いったそうです。
彼女は16才頃から、 自由民権とは何かと言う事を本を読んで、人に伝え、
人々に広めていくことが、世の中のためになる事と考えていた様です。
しかしながら、当時の人達は、「 うーーん、あんごうじゃのうーー。」
「 影山の おネーの言う事は、 そうなんかのうーー。」と、 彼女の事を
変わった少女と見ていたようです、
そのことが 新聞に紹介され、報道され、加熱して、 彼女の事を人々は
「 東洋のジャンヌ ダルク みたいな 人じゃのう。」 と呼んで、その噂は
遠く九州や、四国、 北海道まで 広まっていったそうです。
そんなお話しを 石黒 代言人から聞いた 金 玉均氏は、「ぜひ 1度
お会いしたい。」と、 石黒先生に懇願したそうです。
ところが 石黒 函一郎 先生は、 しょんぼりして、「 岡山にはもういない
のです。」 と言う。
【 土佐自由党 板垣 退助 公 】
聞いて見ると、 土佐で彼女の評判を聞いて岡山にやって来た 板垣 退助
公が一足先に 影山 英子 先生に面会し、彼女の方から、「 板垣先生、
あのうーー、わたし、 もう少し 自由民権の事、 いろんな事を勉強して見たいの
です、 もっと 世の中を見て見たい。」と、 どこか学校を紹介してほしいような
お話しを要望したようです。
そのお話しを聞いた 板垣 公は、「 ほーーう、 よい心がけでそうろう。」と
多いに感心し、 大阪の学校に 自ら保証人になって、彼女を連れて行って
しまったそうです。
すると、 岡山で自由民権が盛り上がっていたのですが、火が消えたように
なって行き、ちょうど、どうしたらよい物かと、思い悩んでいた当時、 金 玉均
氏が岡山にやって来たというのが 明治18年の9月頃であったと言われてい
ます。
山陽自由党の 石黒 函一郎 先生は、「 もう一度 自由民権の運動を広げる
起爆剤にしたい。」と、 大朝鮮国の元 全権公使 の 金 玉均氏に、岡山での
講演を依頼したと言われています。
【 明日に続く。】