第2050回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2049話 朝鮮独立党 金 玉均 氏と蒸紅学舎【じょうこうがくしゃ】事件のこと。
2018年1月24日水曜日の投稿です。
【 実は、日本の瀬戸内海の船中で作られた テグ旗 】
【 前話の続きから。】
初めて 現在の大韓民国の国旗、テグ旗を掲げた、神戸 西村屋旅館の
一室で考え混んでいた 朝鮮独立党の金 玉均 氏は、 再び、祖国に戻り
に協力者に仕立て、自ら利用しようと計画、 日本人を興亜に煽り立てるのには
に書いてもらった 紹介状と、 影山 英子先生の滞在先と聞いた、大阪の親戚
の藤井なる家に向かうことにしたと言われています。
その藤井なる家を訪ねてみると もう その家には 影山 英子先生の姿
はなく、 そして 家の人から、 蒸紅学舎事件のお話しを聞くことになって行った
と言われています。
戦後の現在 知る人は少ない 蒸紅学舎事件とは どんな事件であったのか
と言うと、 こう言う 経緯であったそうです。
影山 英子先生の親戚の藤井さんと言う人のお話によると、岡山県の和気
と言う場所の 教員をしていた 影山 英子先生 当時16才は、将来のことを
考えて、 自由民権を考え、そして学習して、岡山県の女子への教育の推進
の先駆けとして、 私塾 蒸紅学舎 【じょうこうがくしゃ】 という塾を造ったそう
です。
現在で言えば、 高校一年生程度の年頃の出来事であったようです。
お米を蒸して、銀米にする。 この行為を教育に結びつけて、蒸す、紅【くれ
ない 女の子の事】 学 【まなぶ】 舎 【教室】 という意味合いがあったそう
です。
ところが、彼女が 「 東洋のジャンヌダルク。」と 新聞に紹介されると、
岡山県の集会取締条例 という 法律を根拠に、 この蒸紅学舎なる私塾
は、御上を批判する 国賊の学舎であると 決めつけられ、閉鎖という強制
執行を受けたというのが、1年程前の、明治17年 1884年の出来事で
あったそうです。
彼女は、 こんな出来事があって、 板垣 退助 公に面会し、大阪に出た
と言う経緯を聞くに及び、 金 玉均 氏は、「 大変であったようですが、
影山 英子 先生はどちらに行ったらお会いできますでしょうか、 教えて
いただけませんか。」 と、聞くと、 藤井さんは、「 ここで聞いたのは、
奈良県の吉野に行くと言って出たまま、まだ戻ってはいない。」との回答で
あったそうです。
丁重に礼を述べて、藤井家を出た、 金 玉均 氏は、行き先を奈良に向け、
若い景山 英子は、せっかく造った 蒸紅学舎が政府に取り壊され、日本政府
を怨んでいるに違いない、 この怨みを上手に利用して、朝鮮独立党の協力者
にすればきっと役に立つに違いないと考え、 吉野に向けて急いだと言われて
います。
【 明日に続く。】