第2051回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2050話 朝鮮独立党 金 玉均 氏と、山林王 土倉庄三郎 氏のこと。


                        2018年1月25日木曜日の投稿です。



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【 前話からの続き。】


   遠い、岡山県から離れた奈良県の吉野の山中に、影山 英子先生が出向

 いた目的が何であったのか、 この点について多く語った資料は少ないのですが

 あえて言えば、資金援助を懇願しに行ったようです。


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                    【 土佐自由党 板垣 退助 公】


   当時、 土佐自由党や、山縣有朋公や、伊藤博文公などに、多額の資金を

  広く提供して、奈良県の公共土木事業に多くの影響力を発揮していた人が、

  奈良県吉野町の山林王 土倉 庄三郎という人で、 当時45才でありました。


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               【 奈良県の山林王 土倉 庄三郎 氏 】




 彼が、奈良県の公共土木事業に強い影響力を持っていった背景は、政治資金を

政治家に提供して、 山縣 有朋 公などに頼んで奈良県に土木工事の予算を

獲得して、その予算を奈良県と一緒に 道路網の整備や、橋の整備、鉄道の整備

に尽力したというか、稼業の 木材を出荷するのに、どうしても輸送ルートの整備が

必要であったようです。



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 彼の家は、奈良県吉野山中に、多くの山を所有していて、 ここの木を伐採し、




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 木材を運び出すのには、どうしても林道を整備していく必要があったのです。

これをすべて個人でと言う訳にはいかず、 奈良県の予算も限られていて、どうし

ても国の予算で整備していく必要があったそうです。

 国から、何千億の予算を引き出す為には、 少々のお金を政治家に渡して

早く予算をつけてもらう、 こういう仕組みであったようです。


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  彼は、明治政府が潰れて、 自由党の政権が誕生しても、自分が反目に

回らないように、 自由民権派にも、要所要所で 付き合いを作っていたようです。

その代表格が、土佐の板垣 退助 公 でした、 世の中が 回転して、自由民権派

の政府が出来ても、 対応出来るように配慮していたようです。

 そう言うわけで、彼は、本業の林業をどうやったら、スムーズに材木を出荷出来

るかを 考えた上での行動で、 自由民権の推進者とは一線を空けていたという

のが当時の立場であったようです。



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  当時彼を有名にしたお話しとして、大阪に近畿自由党という自由民権の組織

があって、 この組織が中心となって、自由民権派の新聞社が設立されること

になり、 その時に、 奈良県の山林王 土倉 庄三郎 氏が、ポーンと近畿自由党

に、板垣退助 公の仲介で、当時のお金で6万円出資したというお話しは、世間を

驚かせたと言われています。

 明治15年 1882年 あの壬午事変が発生した当時、日本立憲政党新聞という

 新聞社が設立されたのです。

 後の、大阪毎日新聞の前身の組織ですが、当時の6万円というと、巡査の1ヶ月

の給料が9円の時代ですから、 おおよそ 現在の貨幣価値として、13億3千万円

程度の金額になると思います。 


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                  【  娘婿 外務大臣 内田 康哉 氏】


   彼の娘は、長女は横浜正金銀行頭取、原 六郎 氏に嫁ぎ、 そして次女は

 明治、大正、昭和 と外務次官や、外務大臣を歴任した 内田 康哉 氏に

 嫁いだそうです。

 影山 英子先生は、 何を求めていたのか、 それはお金であったと言われてい

 ますが、生活費ではなく、 「学費を援助してもらえないか。」と言う お願いを

 板垣 退助氏の添え状を持って、 奈良県の吉野にお願いに行ったと言われて

 います。

 そして、 谷川にそって、 朝鮮独立党の 金 玉均 氏も 彼女の後を追いかけ

 て、 土倉 庄三郎 氏と面会することになって行ったと伝えられています。


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            【 奈良県の吉野の山林王 土倉 庄三郎 氏 】


 そう言う経緯で、 金 玉均氏の自由民権と 興亜のお話しを 奈良県の山中で

 聞くことになって行ったそうです。



  【 明日に続く。 】